羽分け

ひさしぶりに弓の試合にでた。

弓道では的に半分矢があたることを羽分(はわ)けという。

的中率50%という意味である。

あたった矢と、外れた矢が羽で数えると半分ずつ。

弓を引いている人の間では常識である。

もう何年も弓を引いている人がたまたま試合会場にいて「結果はどうでしたか?」と聞かれた。

羽分けでした。

と答えると、え?と言われ、会場の雰囲気で声のトーンを低くしていたせいか聞こえなかったか、

ですから羽分けです。

と言っても分からない様子だった。

束中(そくちゅう)ですか?と新しい言葉を出してきて、

いや、ですから羽分けです、と禅問答のような言葉の応酬である。




私が知る限り二、三年くらい弓を引いている人が羽分けを知らなかったことがない。

弓をひくことに熱心な人だが、あまりにそれは知らないことが多すぎではないだろうか。

束中、というのは引いた矢が全て的にあたることである。

羽分け、は半分。

一体全体どうして半分しかあたってない人に、全部あたりましたか?なんて失礼なことを…

無知蒙昧である。

1.8倍くらい歳上な羽分けさんを見て思ったことは、知らないことは罪ということだ。

そういう無粋なことを平気で問いただせるのだから。

その後は四の三本あたって決勝まで行って外して試合終了である。

まったく良いことがない試合だった。




家に帰って今日の反省をする。

特に最初の四本目が良くなかったとか、あれをこう引いていればと後悔しきりである。

こうして考えてみるとあたった矢もたまたま的にあたっただけのような気もしてくる。

不思議なもので弓道というのは本人が納得しないと的中も外れ矢と同じような気になる。

もちろん外れても納得ということは更に少ないが。

結局無いものを欲しがるばかりで反省会もいつも同じ結論になる。

もう少し安定感が欲しいとか、落ち着きが欲しいとかいつもの終着点である。

それでも8の5だから、ちょっとはマシだろう元気出せよ。

っともう一人の天使か悪魔の自分が語りかけてもくる。

その甘えにひたると自分の成長が止まる気がして、いやだめだストイックになろう、

と首を振って、まったく分裂気味の内省の連続である。




ただ共通して言えることは、ぬるま湯に浸かっていても上手くならないということである。

私は読まないが、弓道には教科書があってそこには基本的な用語がだいたい収録されている。

つまり羽分けもきちんと載っているはずである。

そういえば羽分けさんは段持ちだった、

まったく始末が悪い。

一言で言えば教育が悪いが、親は子どもが九九を知らないとは夢にも思うまい。

まったくもって始末が悪い。

私はそういう言葉に支配されない人が八面六臂の大活躍をする世界も面白いと思うが、

実際そうではないのだから始末が悪い。




大抵の場合、失敗は弓に限れば自分で難しくしているから起きることである。

迷ったり、逡巡したりする瞬間にゲームオーバーである。

わかっちゃいるけど繰り返す、それでも少し昔より、成長したような気もする。

繰り返しと牛歩が本質である。

われわれの精神世界では、失敗の克服に醍醐味が付加され、あまり華やかさもないのが玉に瑕である。

ところで今日は道具の装飾の華やかさを褒められている人がいた。

もしかしたら弓の調度の華美絢爛はそういうところから来ているのかもしれない。

われわれの乾いた世界の味気なさに一滴の潤いこれありと。

閉会式の誰もが落ち込んでいる中で浮かべる拍手の空空しさ、

きっと誰もがリベンジマッチを誓い今日の床につくはずである。

また試合で会おう、今日の悔しさをバネに。