世界を見るということ

弓の話である。

先日稽古をしている時、立ちで入ることがあった。

私の後ろにまだ弓道歴の浅い、それでいて真面目に練習に来ている人が引いていた。

座射で入るわけであるからそれは一つの儀式なのであるが、その人は飛ばした矢が二本とも的に届かず、

二回目には茶目っ気たっぷりに、しまった、と小さくつぶやいたのが聞こえた。

なんとなればいつも的に届かないのは指導する側の責任である。

年齢も50を超えて弓始めとなれば、堅帽子を何年使っても暴発するばかりで気の毒だ。

落合博満が使っていたリストバンドのようなものを弓手にしている。

それでも顔を払い、弓手を払い、矢は届かず、なのである。

これは100%指導の方法が悪いせいだ。




ところがそれだけまじめに練習している人が、だれもが真剣に引いている舞台で、しまった、と言ったことにとても違和感があった。

側には指導者が付いていたから、申し開きのつもりだったのかもしれない。

しかし普通、遊びで引いているわけではないのだから、失敗して「しまった」などと言うであろうか。

なんとなく真面目さの底が見えてしまったようで私はがっかりした。

もっとがっかりしたのは、そのせいでなんとなく場が和んだことであった。

そういうことを注意しない環境からは好射手は生れないであろう。

しまったで許される弓を引いて上手くなる人のほうが少ない。



弓道の稽古の雰囲気にも伸び伸び型と厳粛型がある。

あたっても外れても、とりあえず運動にはなる、娯楽にはなる、コミュニケーションが生まれる、趣味で弓道をやっていると人に言える、と色々なのが伸び伸び型である。

趣味は弓道などと言える人の気が知れないが。

やはり生き馬の目を抜くような競争のなかで育った人しか上達はないと思う。

矢を外せば良くて鉄拳制裁か、悪ければ一生外す奴だと言われ続ける。

そうなると誰もかれも必死であるから結果、弓の上手が生まれる。

ところが後者の場合は精神を削るので何年もそうした環境に身を置くことはつらいのである。

アスリートがフィジカルに余力を残して引退するのと同じで、心が燃え尽きるとそこで区切りがついてしまうからである。

これがあらゆるスポーツや武道がかかえるジレンマで、死ぬほどに磨き上げると長続きせず、ぬるま湯で育てると一生上達しないという二律背反に陥るのである。

一般的には、市民弓道は伸び伸び型であるが、私は年単位で暴発が止まない50余歳のしまったさんを見て気の毒に思えてしかたない。

お前が教えたらいいではないか、と思われるかもしれないが、そうできるならそうしているし、そうできたとしても外して「しまった」などという人に教える気にはならない。

しまったーーー!くぅ!

ではなく、あ、しまった、(*ノω・*)テヘ

であるからである。

完璧弓道を舐めている。




いつまでもおんなじ失敗を繰り返す人にありがちなのは、同じ世界でしか弓を引いていないことである。

同じ道場、同じ時間帯、同じメンツ、同じ弓・矢・弽、同じ指導者、同じ心構え、(ry

これは中世のヨーロッパの臣民が半径10kmより遠くの世界を見たことがなかった、というのと同じ閉塞感である。

世界を渇望してなんとか世界と繋がる方法を模索しているのと、世界?よくわからないけど矢は的にあたらなくてしまった(*ノω・*)テヘ。では全く意味合いが違う。

要は厳しさと伸び伸びさの間をのらりくらり行き来するのが長続きと上達の秘訣であると思う。