一つの時代の終わり

先日聞いた話で斯界で有名な方が亡くなったことを知った。

今日は弓の話であるようで、私の思い出話だ。

実は前もって亡くなったらしいことを知り合いづてで聞いていたから、

いざ店頭でその弓具店で有名なおばあちゃんがなくなったことを聞いても、

やはりそうだったのか、という寂しさしかなかった。

というより、予め気持ちを作って話を聞いたから落ち着いた態度ができたんだろう。

実際に最初に聞いたときは数秒絶句してしまったと思う。

ここ数年はほとんど会話する機会もなく、施設に入ったという話も聞いていたので、自分の中にも予感はあった。

ふと冷静に考えてみると、なにか忘れないうちに思い出を書く必要がある気に駆られたから今こうして書いておく。

あの人の一生は弓に捧げられたのだと思う。

しかし弓を傍らから見続けてきた歴史の証人のような立ち位置からだ。

 

 

普通、弓に生涯携わるというのは実践者として弓を引き続けることで、斯界では90歳を超えて弓を引いて大往生した先生たちが数多いる。

ところが私の知る限りその人が弓を引いたのは戦前の女学校の一時代だけで、あとは小さな弓屋の店頭で、訪れては去り人並みを改まる弓士たちを半世紀以上に渡って見続けてきたのがほぼ人生の時間の全てだったろうと思う。

これは弓という世界に携わる実践者ではなく供給者側の話であり、それもおそろしく故実に詳しく、自分が見た昔もよく覚え、芯の部分で変わらない弓の本当の姿を持ちづつけた人の話だ。

私は幸か不幸かそんなシーンに出くわしたことはなかったが、客に喧嘩を売るような、なにか間違っていると感じれば堂々と反論することもあったらしい。

普通客商売でそのような瞬間はありえないが、あの小さな体のどこにそんな気迫がこもっているのだろうというくらい、常にそこにはノスタルジーがあり、現状への憂いがあり、今の若者を育てようとする気概があった。

その気概に触れた私は、今でも上手くもない弓をこねくり回している。

弓を引くときに調子が悪くなるときは必ずあるが、その時のアドバイスで私が一生の頼みにしている言葉がある。

「調子が悪い時ほど強い弓を引きなさい」

 

 

先日店頭にお邪魔したときに、家内には内緒で弓を買った。

もう一張くらい増えても誤魔化せるだろうという気持ちが働いている。

なんなら買った弓も家に何張りもある弓と同じ銘で、素人目には一張増えたところで分かりっこない。

木は森に隠せ、弓を同じものでごまかせ、だ。

さいきん、というよりここ何年もうだつの上がらない私は周囲から徹底的に弓を弱くしろという声の集中攻撃で若干ノイローゼになっていた。

しかも偉い偉い先生にも、それとは違う世間にいる弓の旧友にも言われ、しかも二人とも15キロとか、そのくらい人を去勢するような弱さをふっかけてくるから、いよいよ進退窮まっていた。

結局妥協して買った弓が20キロだった。

それもまだ強い弓の部類には到底入らないが、いま思えば本当にそのくらいの弱さで落ち着いてホッとしている。

自分が教わった人に背を向けずに済むのと、的に矢が届かなかったら、道具のせいにできるからだ。

 

 

逆説的に聞こえるかもしれないが、その人はこうも言っていた。

「中らなければ道具のせいにしなさい」

普通20キロの弓を引いて的に届かないことはない。

届かなければ矢が悪い、弦が悪い、ゆがけが悪い、

他の可能性を検討できるという合理的な理由が立つのである、というのは私なりの解釈だ。

純粋な言葉は「中らなければ道具のせいしなさい」であり、後の解釈は聞く人に委ねられている。

しかしそれを最も言うはずのない弓具屋が、自分の技量のせいにしがちな弓引きに対して「道具のせいだ」と言い放てるのがすごいことだった。

だからきっと私だけはなく、いろんな人に好かれていたんだと思う。

 

 

色々な人が同じアドバイスを聞いていて、上記の話も共感できる人が多いかもしれない。

ともすれば、それは同じような助言が様々な個性の立つ客に紋切り型のように伝えられていたと言えるかもしれない。

 

 

ただ強烈に覚えていることが一つあって、それは直接のやり取りではないが、

初めて会ってから十年以上した後の話で、私が27、8歳のときのことだが、

弓具屋で働いていたお弟子さんにあるとき店外で会うときがあって、

おばあちゃんが私をこう評していたと聞く機会があった。

「あの人は瓦の上で弓を引く人なのよ」

なんのことを言っているんだろうと一瞬分からなかったが、すぐに昔のことが蘇ってきた。

その昔、胴造りの大切を延々説かれた私は家に帰って瓦屋根の甍に登って、

闇夜に屋根のてっぺんに爪先立って弓の素引きをしていた。

自分でも恥ずかしい過去だが、

私の黒歴史をずっと覚えていて、私には言わずにそのことを弟子には言って含めていたのだから尚更恥ずかしく、かえって嬉しかったのを覚えている。

私だったら記憶力をひけらかそうとする余り、本人について覚えていることは何年も温めておいて、後年直接本人にこれみよがしに披露するが、そういう無粋なことをしないのが品性なんだろうと思う。

自分も忘れていた自分が覚えられていたら誰しも嬉し恥ずかしくなる。

しかもそれがほんの話しただけのことで、尊敬する人に覚えられていたらなおのこと嬉しいだろう。

 

 

最後に、いや本当は最後に、などという言い方では到底感謝もしきれないが、

おそらく自分がいまでも下手にもよらず弓を引くのはその人の存在があったからだろう。

店先でおばあちゃんに話を聞くにつれ、なにか自分が弓の世界で大きな責任を担うカッコいい自分になれた気がした。

われこそは失われた価値観を、古き良き時代の弓を、衰退する時代にあって故実を正しく継承することを担うのだ、という気にさせてくれた。

単に話好きな人が相手ではこうはならないし、

世の中の上から物言う年寄は醜悪がつきものなのに、

もっと言えば、自分は5%も喋らず95%以上は聞く立場だったのに。

今の時代、人に教えをくれるのにもコンサルティング料なるものがかかる。

それを安い客にも関係なしに延々何時間も店頭で教え続けてくれたから、

おばあちゃんは寿命を縮めたんだと思う。

享年90と聞いたが、しつこい客がいなければ今日も元気でいたかもしれない。

だからその分はこれからは返していかなければいけないんだと思う。

明日も、弓を引きます。

ありがとう。

これからも貰った言葉は絶対に忘れません。