弓と孤独と先生と
若い頃に色々なところで弓を引いていて、
不親切に色々と親切に指導をしてくれる人が多くて辟易していた。
自分の中ではありがた迷惑だったが、今思えば、若造が一所懸命にやっているからとアドバイスをくれたものであると思う。
その頃からあまり弓のアドバイスに一喜一憂して自分の中でうまく消化しきれなかった私は、人の声を聞き入れない頑な人間を形成していったと思う。
他人を拒絶するような壁を作る人がいるが、それが自分の場合は、人の声でかき乱されて自分が見えなくなることを恐れたためであった。
弓に限らずそういうことはあるだろう。
今でもあのときのアドバイスは必要なかったと思うが、よく考えると、自分自身の一本でも多く弓を引きたいという態度が災いして、かえって上達から遠ざかる結果につながったと思う。
そう、無闇やたらに引くことは必ずしも正解ではないのだ。
誤解を恐れずに言えばそういうことだが、人の声に惑わされる環境に身を置かなければならないなら、弓は我慢して引かないほうが得策であるということだ。
一心不乱に自らに集中できる環境があるなら、決して手を緩めてはいけないが。
自分が欲しいアドバイスを求めるために放浪を続ける女々しい瞬間はある。
こう言って欲しい、このように褒めて欲しい、それ以外の助言はいらず、ピンポイントにこのツボを押して欲しいからよろしく。
肩が凝っているのに、腰を指圧されたくない。
ただし、自分からここが患部だと告白はしたくない。
向こうから言い当ててくれる名医を求めている。
それは正直に弱点を相談する勇気がないだけだから女々しい。
どうも日本の文化は必要な分量の言葉を交わさないのに、文脈で急所を当てる千里眼の持ち主を名医と呼ぶ傾向にある。
それを「きらい」とは言わないが、いずれにせよ、教わる側が受け身になることで指導する側の資質に寄るところが大きい。
最近弓を教えていて思うことも多いが、たとえば昇段したいという欲求を覚えるのが通常は自分自身の弓の腕前の上達とパラレルである。
人に教えたいから昇段したいという人は普通いない。
目の前の人間に教えるのに段位は関係ないからだ。
(もしライセンス制に指導者がなるなら別だ)
たいていの人間にとって他人に弓を教えるなんて、責任重大で煩わしことだろう。
その重大さを理解しないで軽々と指導をくれてやる人の言葉の軽さはやはり子ども心にもよく分かったと思う。
大人になって思うのは、あのとき指導をくれてくれた人たちの軽さと重さで、
まったく箸にも棒にもかからない人の言葉はいま心になく、ほんとうに自分にとって必要なアドバイスをくれた人の言葉は今でも心に残っている。
助言は、何年も経ったときに喚起され落とし込めるときがある。
あるいはあの言葉は未だに理解できないが記憶に残っている、というのもある。
ともに良い先生に巡り合ったということなのだと思う。
人に弓を教えるというのは責任重大だ。
その人の人生を背負う気がなければ、絶対に口を出すべきでない。
それがきっかけで調子が悪くなったら、徹底的に上向くまで付き合う気がなければ、人の弓と向き合うべきでない。
なぜなら弓に人生をかけているわけではないからだ。
数多くある時間の使いみちとして弓を選択しているに過ぎないからだ。
ゴルフにいかず、カラオケにも行かず、酒を飲む暇があれば弓を引く、井戸端会議をする輩(ともがら)との時間が惜しいから社交を経って弓を引く、そんなやつは居ない。
弓は選ばれた余暇の一部だ。
一言何かを言うことは、
最後まで一蓮托生を貫く覚悟と表裏一体だ。
弓を引くことはある程度までいくと孤独に陥る。
称号者の弓にけちを付ける人はいない。
もちろんそれは、ケチはあるのに言ってくれる友だちがいなくなるという意味だ。
尊敬と嫉妬と軽蔑が入り混じった沈黙のなかで上にいくほど弓は孤独になる。
誰かに野次られているうちは幸せな外野に囲まれ、雑音も多く、
昇段すれば周りは静かになり、一人よがりの弓になっている自分にも気づけなくなる。
人に教えるとは自分を見失いそうになるほど客観性が欠如するなか、
誰かの道標にならなければいけないということだ。
こんなに大変なことはない。
しかもそれでお金を稼げるということもない。
だからこそ、誰かの弓に誠心誠意向かい合う指導者は尊敬すべき人なのだと思う。