コンビニ

新型コロナの影響は思いもよらない出会いをもたらした。

今日も弓の話である。

地元の道場が閉鎖されているからと、私がこっそり夜な夜な通っている道場に遠方の弓道家が訪ねていた。

地元では有名な弓引きで、国体にも出ていずれは天皇賜杯を狙おうという人でもあることは間違いない。

奥さんと二人で当世風の弓らしくタブレットで射影を確認しながら、微笑ましい時間のやり取りをしていた。

当人は覚えていたかいざ知らず、いつだか審査の受付をしてくれたのが旦那の方だった。

すなわち、私のような低段者とは比ぶるまでもなく若手の筆頭として、与えられた職務に粛々と従事することを、上役から宿命付けられた若者なのであるが。

 

 

弓道の歴史を鑑みると、

出世の手段としての弓はまさしく世の中における出世であった。

今日において名誉職と化している範士号などは兎角、戦前の武徳会においては給金をもらって弓に従事することから、広く武道という観点から言うと今でも相撲がそうであるように、その道に秀でていればそれだけで弟子を取り、付き人を従え、勝負の世界に望む専属の武道家となることを意味していた。

この手当は終身雇用であり、一度その地位に達せば安泰という性質のものだが、故人にとっては死ぬまで研鑽を重ねなければ罵詈雑言が聞こえる呪文であったのかもしれない。

矢が外れたら地位に見合わず、今でもそうだが、高段者の矢渡しには失笑が漏れる。

それがもっと酷く、人格否定に近しい時代もあったように思う。

昭和の名人がほとんど外さず、われわれが回顧可能なぎりぎりの時代の射手がとても優れているように感じるのは、過去を誇張しがちな人間のサガを別にして、たとえば大学弓道が必死にトップリーグでしのぎを削っている現代の緊張感が、生涯その人について回ったからであろう。

中らなければ見合わない、社会的にも死んでしまう。

一射絶命という言葉が今に残るのは、それが比較的最近まで現実味のあった価値観であったからだろう。

 

 

閑話休題

その地元で有名な弓道家が稽古上がりに見せた姿にとても驚いた。

びっくりするほど私服が無頓着で、つまりダサかった。

あんな格好では近所のコンビニにも行けない。

だからこそ彼には光が差していた。

弓にお洒落は存在せず、

飛ぶ矢が嘘をつくことはない。

彼はきっと早晩賜杯を戴くだろう。