テスト
最近、ブログを移設することとなった。
どうにも苦手なのは、自分の過去の醜態も晒し続けないといけないことで、
このまま自然消滅しても良かったとも思うが、
理屈をこねると、
一日数人来ていた懲りない読者層に報いないといけない心根があったためだ。
要は、また見に来てくれてありがとう、ということである。
それは嘘だが、
このブログはどうも弓に特化しすぎていて、更新が途絶えるタイミングは私がすなわち弓を引いていないことを意味しているが、
そもそも「外国人の話」というタイトルも、自分が外国人という立場に置かれる異国、あるいは外国のような国内の異環境に置かれた前提で話をすすめていたからだ。
ところが今でもその前提に変化はない。
このブログに訪ね、励まされ、癒やされるような人間に母国はない。君がそのままの精神性であるならいつまでも、君は漂流し拠んどころない人間である。
閑話休題。
最近、弓を引くことがあった。
今日も弓の話である。
いつの頃からか足繁く通う道場があって、それはそこにいる人たちのコミュニケーションが公営の道場にして心地よかったからだが、しばらく通わない間に景色が様変わりしていた。
一般に様変わりとは、客層の新陳代謝により学生や若い社会人射手が入れ替わり、一方、高齢の指導者ばかり据え置き型のシワが増え髪が薄くなっていくジジイとババアであることに風物を感じるわけだが、その道場は極めて珍しいことに、そもそも人がいなくなっていた。
いや、もしかすると私が知らないうちに弓道の文化は衰退を初めていたのかもしれない。
常連者が死んだという話も聞かないし、確かにどこかで息をしているはずだが、
兎にも角にも、彼も彼女ももうそこにはいなくなってしまったのだ。
いつもは横槍おじさんや、徘徊おばさんがいて、射場をうろいて虎視眈々と指導をする機会を伺っていた市民道場の名物的な魑魅魍魎も今ではすっかり鳴りを潜め、業界全体に停滞の兆しがなんとなく見られて残念だった。
ここ一、二年で確実に物事は変わっているのだろう。
道場の利用時間のギリギリまで矢数をかけていた低段者のおじいちゃんから、朝活よろしく充実した余暇を座射の数手で終えて満足していた縞袴のジジイまで、彼も我も、とんと見えなくなってしまった。
一を聞いて十を知る、というのを文学の比喩で換喩(かんゆ)というが、
射手が減った現状から業界のあり方から想像すると暗い未来が待っている。
弓には、本来願いが込められている。
人によって的中の願いであり、露骨に言えば名誉欲であり、あるいは選手としての自分を放棄しているのに関わらず、叶いもしない昇段欲を覚え続ける人もある。
飛ぶ矢の先には何もない。
紙と土しかないのだから、それは本来なんにも無いことに等しい。
私たちは矢と安土の間に紙を挟むか、あるいは土に直接矢を突っ込むかという薄っぺらい違いに人生の貴重な時間を浪費している。
それが違うと思っているのは弓引きだけで、
安土に矢が届いただけで喜ぶのが世の人の大半であることを忘れがちである。
執念深く紙的を射抜くことに、われわれは果たして、幸せを感じているフリをしていないだろうか。