巻藁三年

弓の世界では古くは巻藁稽古を三年積んで的前に臨んだらしい。

今日も弓の話である。

最近台湾で和弓を普及した川島範士の本を読むことがあった。

この人は今ではあまり名前を知られていないが、

どうも少し白熱して文章を書くきらいは別として、

弓に正直に取り組んだ古武士のような人であったらしい。

著作を読むと真に当初の三年は巻藁のみに終始して、

三年で13.5万本を射たという。

一日もかかさず弓を引いたとして毎日120射ほどしたことになる。

それが本当かはいざ知らず巻藁稽古のうちにすでに八分五厘の弓を引いたとある。

初めて的前に臨んだときに20本を引いて14中し、

師範から川島は今日が的前が初めてであると紹介され、

周囲の驚嘆を得たというのが話である。

 

 

最近、極端に弱射手である私も弓場に通えない日々に少しだけ巻藁に勤しんでいる。

なかなかどうして巻藁というのは学びが多い。

的に向かって引くから癖が出ると前は思っていたが、

普通に目の前の的でもよく考えると癖が出て、中たりを失う理由が現れている。

存外、的射のときだけ悪さをするというのは嘘で、

細かく覗いてみると大なり小なり目先の的でも同じことは見え隠れしている。

 

 

ここからは奔放に書くが、

江戸時代の巻藁が縦置きに置かれているのはおそらく、

藁を締めるだけの機械的な力学がその当時なかったためだろう。

今以上に巨大な樽が昔の絵巻物には登場するが、

それは縦でないと貫通してしまう弓力のせいでもあるかもしれない。

当時の指導の方法は、今で言う「弦取り」という方法は厳に慎まれていたらしい。

それは弓に触る、人の体に触る、というの悪さを嫌ったためである。

今ではペタペタ触られて弄くり回されることも多いが、

全く良い気がしないのは、故実に通じる感性があると思う。

 

 

現代弓道の弊害は自分の姿を客観的に見られることかもしれない。

動画に撮って、いくらでも自分の姿を見ることができる。

思いもよらない角度から撮られたムービーを見ると、

大抵の場合死にたくなる。

これは自分の声を勝手に録音されて急に聞かされたときも同じだ。

弓でも声でも、自分が他者からどう見えるか証拠を出され平静でいられる人はいない。

 

 

自分がどう他人に映っているか、その感性は今と昔では大きく異なっているだろう。

映像や鏡さえなかったなら、伝聞で客観視するしかない時代と、

写真や映像を自分の目で確認できる環境では反省の仕方も違う。

後者は見え方や見栄えを重視する価値観を助長したとも言え、

youtubeに晒されて、引き方でものを語ることに全てが成り果てた時代ともいえる。

映像だけで上手いと思っている人、画面の向こう側でしか知らないの射手の矢の飛び方を私たちは実際には知らないが、

本当に衝撃的な射手とは目の当たりにした矢の鋭さで記憶される。

型に固執して本質を見失うとはこのことだろう。

中貫久とは、すべて矢の話しをしている。

 

 

弓は目で消費するものであることは間違いがない。

少なくとも昇段審査で評価されるのは、脇正面から見た射手の姿だ。

しかしそこで表現される音、弦を離れた矢の軌道、

そして場にいなければ感じられない何かは映像において捨て置かれる。

目で見なければ分からない何かは、本当に目の前で表現される場合と、

画面越しで見る場合とでは伝わり方は全く異なるのだ。

折しもコロナ禍では映像で昇段審査の判定をするらしい。

その限界は誰しも感じてはいるが、

これを良い機会として、そもそも映像を仲介することの弊害を今一度問い直すべきだろう。