アジア

 
 日本人が日本で「アジア人」という言葉を使うことは、一体何回あるであろう。そしてヨーロッパの人々が、この言葉を口にする頻度は高いのであろうか。「アジア」、この一つの言葉には様々な思いがこめられている。それは単純な地理的分類であり、「アジア人」とすればその地域の人々を指す。この「アジア」という言葉だけでは「アジア」の全てを表現することは出来ない。「ヨーロッパ人」という言葉を「ヨーロッパ」の国々で使うことは、とても不自然なことである。なぜならそれは「ヨーロッパ」の全てのアイデンティティーを、一まとめにしようとすることだからである。そして、それは決して可能なことではない。
 もし日本人がスウェーデン人を前にして、誤って「フィンランド人」とか「デンマーク人」と呼んだとする。そう間違えた本人すると、この三者の区別をつけるのは難しいことなのであろう。これは換言すれば、スウェーデン人にとって日本人と中国人、そして韓国人の区別を見極めるのが困難なのと同じである。しかし人々の中には、他の国の人たちと異なる意識があり、伝統が根付いている。ひとつのひとつの国が個性を持ち、そこから更に個々人がその国の国民としてのアイデンティティーを持っているなら、同じ人間であっても同じ人種として分類されるのは、不条理であることもある。ここでいう人種とは、白人、黒人、黄色人種という単純な分類のことではなく、一つの国がある上での一人の国民のことである。スウェーデン人はデンマーク人でもフィンランド人でもなければ、スウェーデン人なのである。同様に、日本人は韓国人でも中国人でもなければ、日本人なのだ、ということである。
 私は現在スウェーデンの首都にあるストックホルム大学で、交換留学生として学業に従事している。スウェーデンの大学では学費が無料である上、ストックホルム大学は全世界の大学と交換留学プログラムの協定を結んでいるため、大学のキャンパスはEthnic Diversity(他民族性)を体現したものとなっている。講堂の中は、スウェーデン人を筆頭に、ドイツ人、ロシア人、イタリア人、イラン人、キルギスタン人、中国人、日本人等々、多様な人種で溢れている。彼らの学問に対する姿勢には素晴らしいものである。授業中に居眠りする学生を私は見たことがないし、講義を休講する教授にも未だかつて出会ったことがない。(その両者は私が日本の大学にいたときに、ごく当たり前のこととして目にしてきたことなのであるが。)しかしその堅実で優秀な学生が使い、ときとして私が疑問を感じずにはいられない言葉がある。それは「アジア人(Asian)」という単語である。
地理的なアジアやアジアを総体として言及するとき、このAsiaもしくはAsianという単語は、便利なものであろう。しかし、政の話や文化の話をしているときに「アジア」という言葉で広い地域のすべてを語ろうとするのは、奇妙な考えかたである。例えば「アジアの政治」とか「アジア風の家具」というような言い回しである。実際にはアジアでのイデオロギーは国によって違い、家の中身も異なるものなのである。「アジア」と呼ばれる地域の中には約五十の国があり、全世界の人口の約六割が住んでいる。そしてその広大なユーラシア大陸と多くの島々を含んだ大地は更に、東アジア、南アジア、北アジア、東南アジア、中央アジア西アジア、と分類されるのである。日本人が住んでいる日本は、このうちの東アジアにあたる。そのほかにもこの東アジアには、中国、台湾、韓国、北朝鮮などがある。この国々の出身者が相対したとき、互いの視点から、一体いくつの共通点が見出せるであろうか。或るスウェーデン人学生いわく、「同じ目であり鼻であり、同じ背の高さで、同じ髪の色をしている」とのことである。確かに日本人の目からでも、同じに見えることは多い。しかしそこには必ずわずかな違いがある。例えば、日本人と中国人の服装は違うし、目元やあごの形も微妙に異なっている。それはおそらくスウェーデン人の彼には見分けられなかったことであろう。
それとは反対に、スウェーデン人について、日本人はその頭の中に一体どんな像を思い浮かべるであろうか。背が高く、金髪で整った顔立ち、という想像はあながち間違ってはいない。だが、それがスウェーデン人全てに言い切ることが出来るだろうか。スウェーデン人がすべて金髪で長身であるわけではないし、黒髪の人もいれば、背がそれほど高くない人もいる。加えて移民が多いスウェーデンにおいて、「スウェーデン人とは…」という定義を求めるのは難しいのである。
残念なことは「アジア人」といわれる側の人たちも、その呼称に甘んじていることである。なぜなら学問において、ヨーロッパを中心に捉えるものが多く存在するからである。私は今までストックホルム大学で政治学の授業を受けてきた。スウェーデンにおける政治学マルクスホッブズ、ミル、ルソーなど欧州の思想家を勉強する。そこには孟子孔子も、福沢諭吉も出てはこない。「それらの思想は無視されている」とはストックホルム大学の教授も認めるところである。その雰囲気の中では、「アジアの特定の地域の出身」というアイデンティティーも忘れ去られてしまうのだろうか。
大切なのは「アジア人」からもう一歩踏み込んで理解することである。スウェーデン人は「北欧人(Scandinavian)」といわれることを好まないであろう。なぜなら彼らはスウェーデン人だからである。私は「アジア人」という大枠で囲われることを嫌う。道行く人に中国語で話しかけられても、自分が日本人であることを言うことにしている。「それがアジア人のやり方なのか?」と言われても、「違う、これは日本人のやり方なのだ」ということにしている。なぜなら私は日本人だからである。