国際協力

「国際協力」、それは人を助ける美しさや健全さを持つ言葉だ。

しかしこれが全くもって良いものなのか、その言葉の先にあるものを知るのが大切なのではないか。

その単語はその美しさをもって人の思考を止めてしまう。

その裏には一体何があるだろう。



例えば、アフリカの大地や東南・中東アジアに入り、その土地の人々に薬や食料を配給する。

それ自体は必要とされていることである。

しかし、どこまでがその現地の人たちにとって本当に必要なことなのか。

部族の中に病気に患うものがいたら、加持祈祷をもってしてそれを払う文化もある。

寿命が五十歳でもそれが天寿であり当たり前のことなのだと考える人もいる。

それを原始的だと退け、自分たちの価値観を押し付けるのは文化を破壊する恐ろしさも秘めている。

その土地に住むものの目に映る「国際協力」の姿は、救世主か侵略者か。

「国際協力」、この言葉の負の面を見過ごしてはいないか。

ある文化で咀嚼され培われてきた考えが、かならずしも万人に当てはまるものではない。

第三世界の人々は本当に必要なものを享受しているのか。

必要なのは、民主主義かパンなのか。

それとも文化を守ることなのか。



以前、ストックホルム大学の政治学の授業でアフリカから来ていた学生がこういうことを言っていた。

「グローバリゼーション(国際化)とデモクラティゼーション(民主主義化)は同じである」と。

その二つの言葉は私の中では全くことなる概念であった。

しかしそれには納得するに足る理由がある。

現在、アフリカ諸国には欧州から多くの技術者・教育者が派遣されている。

その目的は、いかにその国発展させ、いかに人々を教育し、その土地を開墾するかを指南するためだ。

しかしその発展の中にあってで、その国が選ぶことの出来るイデオロギーは民主主義以外ない。

国を発展させることは、その指導者と同じ民主主義を受け入れることが条件なのである。

その民主主義は一方通行でしかない。

そして更にその影で、その派遣されてくる欧州の人々にその土地の女性はレイプされるのだという。

発展の途上にある国はそのレイプ犯を追い出すことは出来ない。

同時にそれが国の発展の阻害を意味するからだ。

その国の成長の裏には悲しみがある。



国際協力、それは人を助ける健全さを有する。

しかしその反面で、人を助ける難しさも抱えている。

「助ける」という言葉がある。

「且つ」とは「十分ではないがなんとか物事をこなす」ということ。

そこに「力」が加われば「さらに物事を上手に運べる」ということ。

「且つ」側と「力」を差し出す側とに分けて考える、それは漢字を使う者の根底に流れる概念だろうか。

不十分に出来内ない部分に、手を差し伸べればいいのだ。横から支えてやればいいのだ。

それは一方的に力を押し付けることではない。

「国際協力」それは玉のように美しい言葉ではない。