弓は人を

弓の大病には早気やもたれ、ゆるみがある。

ここに震えや不中を加えてもいいかもしれない。

ところがこのなかで、もたれはなんとなく会が長く見せ(魅せ)ることが出来るから不問に付される傾向がある。

会が射の見せ場(いわばシャッターチャンス)として人々に自分の弓を誇示する時間であるという認識があるためである。

一見して現代的な形にとらわれた考え方であるようでいて、こうした傾向はそれほど歴史が浅いものではないらしい。

たまにyoutube阿波研造とその弟子たちの弓を引く姿を見ることがあるが、

あれは実際の秒数に直すと10秒程度会の長さがある。

あるいは、本多流の開祖は若い頃絶望的に早気に苦しんだというエピソードもある。

すなわちこれらのエピソードは、明治から大正にかけて、すでに会が短いことは弓道の恥とする概念があったことを意味している。

後世になり、真っ向からこれに対抗したのが昭和の名人といわれるI先生である。

西のM、東のIという呼び名は当代一流の人々に冠せられた世評であった。

すこし脱線するが、西の岡内、東の本多、今の時代ならどなたになろうか。

会が、会が、という考え方も、自分を一角の人物ならしめる必須の条件として武道たる弓道のなかでは切っても切れない鬱勃とした存在感を放っている。




これほど簡易化して考えるのもどうかと思うが、

速射をこととする戦場の弓を使役するとなると、会などというものはそもそも長いことがおかしい。

100%で放つ(私的には80で良いと思うが)という考えに則れば、

やはり会が時間でカウントされるのは本末転倒で、あくまで力の表現が100になればいい。

ところが近代以降の弓は人に見せる(魅せる)、他人に評価される感嘆を呼ぶ、ということをどこかの時点で具備するようになったのかもしれない。




簡易化して考えるのも、というのは実は近代以前にも早気になやまされる射手のエピソードは散見されるからである。

中里介山でも読むとよく分かるが、殿様から下賜された着物を的にしても早気が治らず、自らの子どもを的にして離れを思いとどまる訓練をした、という冗談にもほどがある小咄も江戸にはある。

ともあれ、弓と時間の関係は、おそらく三十三間堂の通し矢がそうであるように、早かれ遅かれ、その長短が評価の対象となったことは言うまでもない。

大矢数は早気に越したことはない、的射は見せ場として引き絞る器用さも必要とされただろう。

われわれは一定の弓の稽古を積んでいるようで、同じような弓の現れ方を練習にも試合にも求めているようでいて、実は、本来は時間の長短に縛られていたはずである。

それは過去の話であるが、伸び縮みする引き絞り時間(あえて会とは言わない)を使い分けることは数百年に渡って運命づけられていると思う。

もっとも、今日的な問題は遅気は比較的評価の対象になる、ということが不思議でしょうがないということであるが。

より評価されるべき、弓の強さ、引きなり(村が稽古の結果として除かれた完成された形としての)、矢飛び、等々はおざなりにされているのではなかろうか。

まったく、見る側の目が肥えていなければ魅せる価値もないのではなかろうか。



このことについては、弓を引く人の大半がサラリーマンであることも影響している。

仕事を終えて、夜半、弓道場にかけつけて弓を引く。

弓を引く本人もそうであるが、より一層見る側には矢飛びなど目にとまらないのだろう。

私の知っている人で、夜にしか会わない人がいるが、

たまには賢者もいて、照明に照らされた矢飛びを評価していた。

こういう人に会うとたまらなくうれしい。

最近では矢飛びを云々語る人も出会うことはまれである。



弓は人を現すというのはよく言うことである。

それは、道場での立ち振舞いで瑕疵があると鬼の首を取ったように非難する人、押し黙って人を小姑のように非難しない暗黙の賢者、本人が上手く引けなくても上段から物を言わなければいけない出世しすぎた人、静かに人の弓を見て自分の糧とする他山の石タイプ、的に中たる人は誰しも上手に見えるまだ目が肥えていない人、人にも教え自分にも同じ人から教えを請う毒のない人、など様々である。

弓道という画一的な場、道具、射法のなかでこれだけ潜在的に異なる人種がいることこそが弓道の醍醐味であり、普段弓場に出入りすることの面白みではないだろうか。

我々が弓道をしたことの一つの成果、というのは語らずして通じ合い理解する、というメタ的な交流を可能にしていることである。

人は見た目が九割であるならば、見えるものの何割をわたしたちの眼は捉えているであろうか。

切磋琢磨

この間シャレにならない苦労話を聞いた。

いつもの弓の話である。

その人は、いわゆる流派弓道あがりの人で一般の市民道場で苦労されている、弓道難民の一人である。

あるとき、弓を引いていると開き足の作法が違うと上段から偉い人に注意されたらしい。

もう一度やり直しても違うのだと言われるという。

その先生がいう作法が、こうだ、と見せつけられたらそれは一息だったという。

かの人は二息で足踏みをするというただそれだけのことだが、

先生と周囲から崇められる、初心者弓道教室あがりの人はニ息というものをそもそも知らなかったらしい。



私たちの世界には、いつの時代でもそうであるが、ガラパゴス化というべき現象がつきものである。

同じ人、時間、空間で価値観を共有すると、多様性が失われ、技術が閉塞的になり、

いわんや作法もまた同じ、というものである。

もっとも、明治時代に射法統一の機運が興り、それが本多なのか日置なのかよく分からない打ち起こしをするキメラ的射法を生み出したのも、こうしたガラパゴス化の影響である。

鎖国的な260年間の間に、各地方の弓の引き方も千差万別となってしまったのである。

もとは一つの源流から、ほぼ他流の介入なく、生み出されている射法も、

伝言ゲームの終端がまったく新しい答えを生み出すのと同じで、

蓋を開けたら地方、地方で異なる引き方になっていたという話である。

(それは開き足云々よりも高尚な次元の話だが)



これは我が国が一つの国ではなく、諸藩という越えがたき壁に隔絶された極端に閉塞的な時代のことであったから置いておく。

問題は、今でもこうした鎖国的世界観が蔓延していることにある。

原因を言えば、それは探究心と向学心の欠如にあることから来る不寛容であることは間違いないが、われわれの時代において特にそうした業(ごう)が深くなっているのではないか、というのがその人の懸念であったと思う。



「私たちは絶滅危惧種のゴキブリと同じように道場の片隅でほそぼそと弓を引く存在かもしれません」

一言一句あやまたずに伝えれば、賢人はそう述べた。

さて、ゴキブリにも危惧種がいるのかは知らず、

私はそのセリフを聞いた時、叩いても死なない生命力のようなものを感じた。

もしかしたら自分を卑下した言い方が、それでもこの世で生き延びるという反骨心を静かに表現していたのかもしれない。



ここまで言って恐縮だが、その人とは初対面であった。

まったく友だちでもなく、これまで弓を引いたところも見たことがない。

いまでも見たことはないが、その弓が欠点に溢れていても同族愛のような慈愛で見つめることができるような気もする。

というのは「アラが見える射手」とは、たいてい自分が嫌いな人間であるからだ。

私たちが鼻持ちならないと感じるのは弓の引き方のことではなく、よくよく考えればその人本人の在り方を納得できないからではないだろうか。

他人の弓を評して「〜だ」ということはある。

しかしその多くは弓に仮託しているだけのチープな人間評であり、真摯に人を貫く言葉はまた違う響きを持って他人に聞こえることを私たちは戒めるべきであると思う。

道場の片隅で人知れず朽ちていく賢者もいれば、表通りを闊歩する一息一筋の初心者もいる。

沈黙は金であるが、裏通り連盟がまだ脆弱なのも、言いたくはないが現代の課題の一つであろう。



私が次にその人に会うのはいつのことであるかは分からないが、

きっとお互い知己のような気持ちで昔の藩の壁を超えて、つながっていると信じている。

いつかはお互いが同じ道場で邂逅して、

あれが違う、これが違うと新鮮さを持ってやり取りをする、

好奇心と驚嘆に溢れた場所が世の中に出来ることを願っている。

私たちは差異をやり取りすることに恐れ、腫れ物に触るような気持ちで互いを見つめ、

触れずじまいに終わってしまうという未遂事件を何度も経験している。

(弓を愛するヒトは内省的である余り、同類と知己になる機会を失しているのだ)

その人がどんな社会的な立場であれ、どれほど遠くの人であれ、

本当に近しい存在であれば、時空を超えて、昨日会ったような気持ちで再会できる。

残念ながら、得てしてそういう人とはたまにしか会わないのであるが。

悪魔に魂を

百発百中の弓の名手に成るのなら是非にでも悪魔に魂を売る。

そう嘯いたことが幾度となくあった。

今日は現実にいた名手の話である。

いざ弓を執れば百射皆中、調子が悪くても90中は固く、

不動の異次元の射手というべき人がいた。

ここで歓迎されるのは射は典雅、人は上品ということであろうが、

何の事はない、普通に引いて普通に中たるだけのことにしか私には見えない。

しかし、彼の人は独特な感性を持っていた。

あるとき話を聞いたら、道場の床の凸凹が気になるから射の成否に影響をする、

という不思議なことを言っていた。

よく、中たる人間は上段から下手くそな射手に対して、権威を持って傲慢な事を言うが、

そのときの彼の発言は、本心から出ている朴訥な感想のような言葉であった。



それからしばらくして、彼はある人に弟子入りをして、

手の内に一癖があるからと弓力を何キロか落としたことがあった。

そこから的中率は二割に落ちた。

もうどうにも弱い弓を操作しても、軽い矢を使役しても、

自分の矢が届かず、なぜ中らないのかも理解できないということであった。

今では師から出奔し、元の弓矢に戻ったことで、

幸いにも率は八割ほどに戻ったようである。

以前の絶対的な姿からすれば、八割しか、中らなくなってしまったのであるが。



彼は一般的な今日の弓を引く人ではなかった。

流浪の民のように巷間の道場を流れて、

しずかに一隅で淡々と日に何百射と引いていた。

そのまま無名の名射手のまま、自分流を貫いていれば、ひとり百発百中の名手としてひっそりと暮らしていたはずである。

なにかが彼の邪魔をしたとすれば、

それは表舞台で華々しく戦果を上げることを囃し立てる周囲の雑音であっただろう。

つまり、彼の百発百中の妙を邪魔し、妨害する、

彼に対し鼻持ちがならないアラ探し連中の喰い物にされたのである。

まるで的に中たり続けることが重罪であるかのように。





けだし、悪魔に魂を売るとはそういうことなのだ。

中たることに対して巻き起こる世間の風雪に耐える精神性を備えていることが、

あたかも技術より大切なことになると教えている。

秋風や

芭蕉の弟子の去来の句であったか、

秋風や白木の弓に弦はらん。

湿気が失せて、一気に気温が下がり、秋口に白木の弓を引き出してくる。

そういう一句に則して言えば存外風流であるが、

何のことはない最近弓を買ったのである。

故人は弓をそれこそ何張りも購ったようである。

それは別に金持ちの道楽というのではなく、貧乏人であっても弓を求めるに安い時代があったためである。

いまでは一張の弓が黄金の如く、一世一代の買い物と(それこそ貧乏人には)なりつつあるが、

古来、弓を買い連ねることは贅沢にもならないことであった。

向井去来という俳人は弓を引いたようだが、

もしも、句の読み手である我々が一張りの弓しか想像しなかったとしたら、それは間違いである。

弓を引く江戸時代の人間が、白木の弓を一丁しか所持しなかったわけがない。

明治の中頃でも(今日の貨幣価値で)白木弓は一張三万円ほどである。

去来の描く世界の裏側には、弦を外して数ヶ月、湿気と夏熱に晒され裏反りもピンピンな弓が何張りも並んでいるのである。

それら一つひとつに弦を張り、調子を見て、さあこれからの稽古は調子の鈍い漆拭きの弓を置き、

秋風に吹かれ、すっと水気と湿度が引いた生き生きとした白竹の弓を使おう、

心機一転、弓にも新しい季節が訪れた。

「白木の弓」とは季節感の現れと、新鮮さの表現である。




さて、残念ながら一張の弓しか買えなかった私は、

某新しい弓職人のカーボン入りの竹弓をなんと購入したのである。

今まで鼻つまみものにしていた肉詰めピーマンに手を出したような。

それでいて肉の部分だけ食べるわけにもいかず嗚咽しているような。

見た目には全く竹弓にしか見えないが、

どうにも離したときに思っていない反動が返ってくる。

強い弓を引いても、反動が(グラスの弓に比べたら)全くないから竹は思う存分引けるのに、本末転倒である。

と思いきや、存外矢飛びはいい。

これは手の内が下手くそな私のために開発された天の贈り物に違いない。

弓を引き終わったら弓倒しをする。

腰のあたりに弓手の拳が戻る。

まだ弓が振動している。

発明した人は特許を取るべきであった。

そうすればこれほど普及することはなかったはずである。

私が引いている時はやはり弓返りも不自然なのだろうか。

よくカーボンのそれは弓返りで不自然な震え方をする。




例によって胴がほとんど入っていないため、

見るべきでない人が見ると「胴が抜けている」と言われる。

あれはどういう鑑識眼を持つものなのかと不思議に思う。

引きなりの美しさこそ見る人を感化するものではないか。

これは弓が下手でも関係なく伝わる機能美である。

「この弓を見ると下を踏みたくなる」

という人がいたが、以前踏まれて何日も悔いたことがある。

弓をブサイクに仕立てるために捏ねくり回す人がいる。

美醜の判断ミスは、美的センスに欠けているから起きるものであろう。

それだけ世の中には良いものが少なくなっているのである。




白木の弓、が詠まれた頃、世の中は元和偃武と呼ばれる太平の時代に入り久しく、

向井去来の時代には、西鶴の『好色一代男』が売れに売れ、庶民の生活を活写した官能性が持て囃され、

間違いなく、芭蕉十哲のような貧乏な前衛文学の徒は生きる場所などなかった時代である。

庵に隠遁した元武芸者である去来はそれでも、秋の風を感じ、

自らの武士の名残りである弓を離さず今日も枯淡の境地で秋空に弦音を響かせる。

矢場を隔てた表通りからは、賑やかで破廉恥な若い町衆の声が聞こえて来そうである。

これは、世の中に背を向け一心に自分の世界を貫いた人間の姿を映しているのである。




考えてみれば、

弓を引き、その傍ら、五七五の俳句を延々と綴るというのはどう見ても変人である。

今で言うフリーターのような去来は武芸者としての仕官の誘いを固辞しつつ、

(ということは弓の相応の腕前であったはずだが)

家業の手伝いをして宮中で陰陽師儒家のような知的労働をしながら、

享年54歳でこの世を去ったという。

身内が高級官僚と付き合いがあるため、それにぶら下がり清貧に生きながらえている文学者、と言えば聞こえはいいが、こうした人品は現代にも心当たりはあるだろうか。

通常、後年に名を成す人物は同時代人にとっての落伍者である。




去来という雅号についても、

去る来たる、という語意に時代を超越しようとした意思を強烈に感じる。

彼ら芭蕉の門人たちが描く世は、決して当時の生き様や世相を伸び伸びと活写したものではなく、

隣人からも隔絶して孤独な、それでいて世の何処かの同類とは接続する、一歩間違えれば名も無きネット社会のニートと同じような世界観を詠じている。

われわれは平和な時代に生まれた世捨て人を持ってゆとりと断ずることがあるが、

真に極まった人は戦国の最中でも、一心不乱に世捨て人を貫いたであろうか。

馬手

久しぶりに200本引いた。

といっても100本を越える日も最近は週に一度はあったが、

やはり矢数がないと気付きが訪れない。

最近ずっと調子が悪かったから引くことに集中していた。

188本目でやっとおかしい箇所に気づく。

あ、しまった、これはこうなんだ、と思うまで188本費やしたわけだ。

非常に効率の悪い練習方法であるが、やはりほんの200本くらい引けないといけない。

それは太公望のように気丈に振舞っていて、

坊主で終わらずほっとした釣り人に似た心持ちであった。



人に教わってその時は上手に出来ることがあるが、

他人に操縦されて出来ているうちは自分だけでは成り立たないのと同義である。

翌日の再現性は殆どないのはご承知の通りである。

たまさか、何かの拍子で、自分だけで体現できたことでも、次の日に消えてしまうことは多い。

これらの至極、よく考えれば当たり前の理性が失われてしまうことが、

他人に任せの自分の弓を引くことの弊害である。

結局のところ弓の上達は孤独なものであるようだ。



不思議なもので、それだけ練習した弓でも山奥の独り稽古で終わらせたくないと思うのが人情である。

弓というのはよく神事の道具として使役されるが、弓は人智を超えた利器である一方で好奇な衆目にさらさえる機会を否応なしに具備している。

我々は孤独で内省的な稽古をしばしば好む一方で、

それが大衆の心を打つような良射としてパッと花開く瞬間を心の何処かで望む。

大舞台に立ち、歌舞伎役者が見得を切るような一瞬を。

たった30秒の出来事が何年も語り継がれることを欲し、

そして刹那の主人公になるために鬱勃たるストレスフルな稽古をも飲み込む。



経験的には、

最高の射は誰も見ていないところで現れるものである。

それはそれでいいではないか、自分が納得すれば十分だろ、

他人にどんなに酷評され否定されようと、俺が良いと思えばいい、

と思いつつ、結局それが人前で再現されることを望んでいる。

この際、目撃者は弓道関係者である必要はない。

審判席のお偉方ではなく、弓を知らない恋人の前だっていい。

(むしろ素人目こそ感化できて一流である)

もしかしたら、我々は演技の勉強をしているのかもしれない。

日の目を見るという言葉に止まない野望を抱き、

こうした感情を総じて人は「スケベ心」と呼ぶことも理解しているはずなのに。

小離れ

小離れ、中離れ、大離れ、

教本にはおそらく弓道の初心者は心持ち大きく離すような離れが良い、

と書かれている筈である。

古写真を見ると、どの名人もいわゆる小離れである。

現代の人間にはもしかしたら真似出来ないことではなかろうか。

自然に離れた結果であるなら、引いて引いて、力がバチン!と出たら、

普通に考えれば馬手は遠くに飛んでいくはずである。

だが引いた結果として、右手は肩口からそう離れていないところに有る。

というのはよく考えれば驚異的なことではないのか。



以前、80がらみのオジイサンに弓具屋の店頭にて絡まれたことがある。

その人は旧陸軍学校で弓を教わった、武徳会時代の名残りを持つ人であった。

半身が麻痺して片手で杖をつき、跪坐が出来ないからどの試合も立射で出るが、

80を越えて再開した弓で、20射14中は固い、という話であった。

それが本当がどうかは知らないが、激烈な翁が言うことは熱がこもっていた。

「今は、引け、引け、というが、わしらの時代は、押せ、と言った」

「どうして武徳会弐段のわしに、若造の称号持ちの教士風情が高説を垂れる」

「その違いを説明できないのにな」

まったく関係のないことかもしれないが、ヒントはこのあたりにアリそうである。

その人曰く、県の同世代で武徳会弐段を持つ人は一人しかいなかったそうである。

思い出しながら書くが、

「会長になったS君は武徳会初段なんだ。あいつが武徳会時代の最後の段持ちの会長なんだ」

「もちろん、わしは弐段だがな」

これぞ真のエリート思想である。



その人は、月刊秘伝という書籍のカバーを飾ったある斯界で有名な人の射形をもって、

これは違う、左手の使い方がなと嘲っていたのが印象的である。

「こんな棒みたいな使い方は美しくない」

と言った反面、

がむしゃらな百射は計算のない一射に劣る、

という趣旨のことを言っていた。



小離れとは、おそらく勝手にしろ、

という意味に通じる、視界に入らない世界の出来事である。

おぼろげな記憶だが、四年ほど前に会ったその人は左手に杖をついていた。

右手はしびれて使い物にならないのである。

そんな老いぼれに負けて笑っていられるのは負け犬であろう。

昔の人は鍛え方が違うとか、それを年寄りの妄言として片付けてしまうのは、

違うのではないか。

離れた結果としてすぐそこに手があるのだ。

これは検討を要することである。

手の位置一つ、流行に流されて場所を変えてしまうのは唾棄すべきことである。

街角の名人たち

どんな街角にも弓の名人はいる。

私の知る限り、いまよりも弓の文化が華やかだった時代がある。

さながらスター・ウォーズのEpisode 0の世界であるが、

つぶさに見ると文化が興隆と衰退を繰り返している、まさに衰退の部分に残念ながら私たちは身を置いているようである。

その当時は今よりも街角の弓道場、当時の言い方では矢場が多く点在する時代であった。

それは今では都心と言われる摩天楼の一角にも存在していたようである。

幸か不幸かよく時代のことを知っている人から聞くことがあるが、

かならず20本を引けば九割という名人か主(ぬし)というべき人がどの道場にもいたらしい。

さながら名物オジサンであるが、私の童心にもこういう人は心当たりがある。

それは半矢の◯◯さんという人で、

前言を撤回して申し訳ないが、どうやっても的中率が50%を越えないオジイサンである。

物凄い早気で、だからといって中たる弓を引くのでもなく、

しかし外れないこともまずありえない人、

せいぜい誤差は±1で、20本を引いて悪くて9中、まれに11中すれば、おや今日は体調がいいのか、

と思わせるような人であった。

かれこれ二十年近く前の人で当時は70を越えていたから今はどうしているか知らない。

もしかしたらタバコの吸いすぎでもうだいぶ前に往生したかもしれない。

当時は道場内でも喫煙は当たり前であった。




街角の名人というのは今でもいる。

中たる人が必ずしも世にはばかるとは限らないのが弓道のマイナー武道としての、

ある意味、皮肉なのかもしれない。

ピート・ローズが変なバッティングフォームでメジャー記録を打ち立てても、

それは誰も批判しない。

彼を批判するのはそのあまりにも汚いギャンブル癖を持ってである。

しかし弓道の名人というのは、結構な記録を打ち立てるような人物であっても評価されないことが多い。

つまり、技術に人格に一癖あるような人物が多いからである。

これがプロスポーツではない弓道の宿命である。

純粋に結果のみを追い求めたところで評価されないアマチュアの壁、絶対的な指標があるからである。

我々が求めるのは全人的な、すべてを兼ね合わせた平均的な優秀者が一等になることである。



しかし今日の弓の衰退がある意味必然なのは、

全人的な優等生を登場させようという価値観の元で射手を養成しようとするところにある。

没個性的なのである。

弓は本来没個性的なものであることは疑いがない。

ではければ射術というのは、一人ひとり異なるもので無秩序の混沌しか産まない。

しかし手が長い人、胴長短手の人、猿腕の人、非力と剛力な人、おんなじように教える現代で、

不幸にして上手になる人は今の価値観にハマった宝くじの当選者のようなものである。

世に10数万人いる射手のなかでもおそらく数十人しか古き良き時代の弓を継承している人はいないであろう。

すべてはそんな時代に生きる儚さしか感じさせない。