小離れ

小離れ、中離れ、大離れ、

教本にはおそらく弓道の初心者は心持ち大きく離すような離れが良い、

と書かれている筈である。

古写真を見ると、どの名人もいわゆる小離れである。

現代の人間にはもしかしたら真似出来ないことではなかろうか。

自然に離れた結果であるなら、引いて引いて、力がバチン!と出たら、

普通に考えれば馬手は遠くに飛んでいくはずである。

だが引いた結果として、右手は肩口からそう離れていないところに有る。

というのはよく考えれば驚異的なことではないのか。



以前、80がらみのオジイサンに弓具屋の店頭にて絡まれたことがある。

その人は旧陸軍学校で弓を教わった、武徳会時代の名残りを持つ人であった。

半身が麻痺して片手で杖をつき、跪坐が出来ないからどの試合も立射で出るが、

80を越えて再開した弓で、20射14中は固い、という話であった。

それが本当がどうかは知らないが、激烈な翁が言うことは熱がこもっていた。

「今は、引け、引け、というが、わしらの時代は、押せ、と言った」

「どうして武徳会弐段のわしに、若造の称号持ちの教士風情が高説を垂れる」

「その違いを説明できないのにな」

まったく関係のないことかもしれないが、ヒントはこのあたりにアリそうである。

その人曰く、県の同世代で武徳会弐段を持つ人は一人しかいなかったそうである。

思い出しながら書くが、

「会長になったS君は武徳会初段なんだ。あいつが武徳会時代の最後の段持ちの会長なんだ」

「もちろん、わしは弐段だがな」

これぞ真のエリート思想である。



その人は、月刊秘伝という書籍のカバーを飾ったある斯界で有名な人の射形をもって、

これは違う、左手の使い方がなと嘲っていたのが印象的である。

「こんな棒みたいな使い方は美しくない」

と言った反面、

がむしゃらな百射は計算のない一射に劣る、

という趣旨のことを言っていた。



小離れとは、おそらく勝手にしろ、

という意味に通じる、視界に入らない世界の出来事である。

おぼろげな記憶だが、四年ほど前に会ったその人は左手に杖をついていた。

右手はしびれて使い物にならないのである。

そんな老いぼれに負けて笑っていられるのは負け犬であろう。

昔の人は鍛え方が違うとか、それを年寄りの妄言として片付けてしまうのは、

違うのではないか。

離れた結果としてすぐそこに手があるのだ。

これは検討を要することである。

手の位置一つ、流行に流されて場所を変えてしまうのは唾棄すべきことである。