切磋琢磨
この間シャレにならない苦労話を聞いた。
いつもの弓の話である。
あるとき、弓を引いていると開き足の作法が違うと上段から偉い人に注意されたらしい。
もう一度やり直しても違うのだと言われるという。
その先生がいう作法が、こうだ、と見せつけられたらそれは一息だったという。
かの人は二息で足踏みをするというただそれだけのことだが、
先生と周囲から崇められる、初心者弓道教室あがりの人はニ息というものをそもそも知らなかったらしい。
私たちの世界には、いつの時代でもそうであるが、ガラパゴス化というべき現象がつきものである。
同じ人、時間、空間で価値観を共有すると、多様性が失われ、技術が閉塞的になり、
いわんや作法もまた同じ、というものである。
もっとも、明治時代に射法統一の機運が興り、それが本多なのか日置なのかよく分からない打ち起こしをするキメラ的射法を生み出したのも、こうしたガラパゴス化の影響である。
鎖国的な260年間の間に、各地方の弓の引き方も千差万別となってしまったのである。
もとは一つの源流から、ほぼ他流の介入なく、生み出されている射法も、
伝言ゲームの終端がまったく新しい答えを生み出すのと同じで、
蓋を開けたら地方、地方で異なる引き方になっていたという話である。
(それは開き足云々よりも高尚な次元の話だが)
これは我が国が一つの国ではなく、諸藩という越えがたき壁に隔絶された極端に閉塞的な時代のことであったから置いておく。
問題は、今でもこうした鎖国的世界観が蔓延していることにある。
原因を言えば、それは探究心と向学心の欠如にあることから来る不寛容であることは間違いないが、われわれの時代において特にそうした業(ごう)が深くなっているのではないか、というのがその人の懸念であったと思う。
「私たちは絶滅危惧種のゴキブリと同じように道場の片隅でほそぼそと弓を引く存在かもしれません」
一言一句あやまたずに伝えれば、賢人はそう述べた。
さて、ゴキブリにも危惧種がいるのかは知らず、
私はそのセリフを聞いた時、叩いても死なない生命力のようなものを感じた。
もしかしたら自分を卑下した言い方が、それでもこの世で生き延びるという反骨心を静かに表現していたのかもしれない。
ここまで言って恐縮だが、その人とは初対面であった。
まったく友だちでもなく、これまで弓を引いたところも見たことがない。
いまでも見たことはないが、その弓が欠点に溢れていても同族愛のような慈愛で見つめることができるような気もする。
というのは「アラが見える射手」とは、たいてい自分が嫌いな人間であるからだ。
私たちが鼻持ちならないと感じるのは弓の引き方のことではなく、よくよく考えればその人本人の在り方を納得できないからではないだろうか。
他人の弓を評して「〜だ」ということはある。
しかしその多くは弓に仮託しているだけのチープな人間評であり、真摯に人を貫く言葉はまた違う響きを持って他人に聞こえることを私たちは戒めるべきであると思う。
道場の片隅で人知れず朽ちていく賢者もいれば、表通りを闊歩する一息一筋の初心者もいる。
沈黙は金であるが、裏通り連盟がまだ脆弱なのも、言いたくはないが現代の課題の一つであろう。
私が次にその人に会うのはいつのことであるかは分からないが、
きっとお互い知己のような気持ちで昔の藩の壁を超えて、つながっていると信じている。
いつかはお互いが同じ道場で邂逅して、
あれが違う、これが違うと新鮮さを持ってやり取りをする、
好奇心と驚嘆に溢れた場所が世の中に出来ることを願っている。
私たちは差異をやり取りすることに恐れ、腫れ物に触るような気持ちで互いを見つめ、
触れずじまいに終わってしまうという未遂事件を何度も経験している。
(弓を愛するヒトは内省的である余り、同類と知己になる機会を失しているのだ)
その人がどんな社会的な立場であれ、どれほど遠くの人であれ、
本当に近しい存在であれば、時空を超えて、昨日会ったような気持ちで再会できる。
残念ながら、得てしてそういう人とはたまにしか会わないのであるが。