馬手
久しぶりに200本引いた。
といっても100本を越える日も最近は週に一度はあったが、
やはり矢数がないと気付きが訪れない。
最近ずっと調子が悪かったから引くことに集中していた。
188本目でやっとおかしい箇所に気づく。
あ、しまった、これはこうなんだ、と思うまで188本費やしたわけだ。
非常に効率の悪い練習方法であるが、やはりほんの200本くらい引けないといけない。
それは太公望のように気丈に振舞っていて、
坊主で終わらずほっとした釣り人に似た心持ちであった。
人に教わってその時は上手に出来ることがあるが、
他人に操縦されて出来ているうちは自分だけでは成り立たないのと同義である。
翌日の再現性は殆どないのはご承知の通りである。
たまさか、何かの拍子で、自分だけで体現できたことでも、次の日に消えてしまうことは多い。
これらの至極、よく考えれば当たり前の理性が失われてしまうことが、
他人に任せの自分の弓を引くことの弊害である。
結局のところ弓の上達は孤独なものであるようだ。
不思議なもので、それだけ練習した弓でも山奥の独り稽古で終わらせたくないと思うのが人情である。
弓というのはよく神事の道具として使役されるが、弓は人智を超えた利器である一方で好奇な衆目にさらさえる機会を否応なしに具備している。
我々は孤独で内省的な稽古をしばしば好む一方で、
それが大衆の心を打つような良射としてパッと花開く瞬間を心の何処かで望む。
大舞台に立ち、歌舞伎役者が見得を切るような一瞬を。
たった30秒の出来事が何年も語り継がれることを欲し、
そして刹那の主人公になるために鬱勃たるストレスフルな稽古をも飲み込む。
経験的には、
最高の射は誰も見ていないところで現れるものである。
それはそれでいいではないか、自分が納得すれば十分だろ、
他人にどんなに酷評され否定されようと、俺が良いと思えばいい、
と思いつつ、結局それが人前で再現されることを望んでいる。
この際、目撃者は弓道関係者である必要はない。
審判席のお偉方ではなく、弓を知らない恋人の前だっていい。
(むしろ素人目こそ感化できて一流である)
もしかしたら、我々は演技の勉強をしているのかもしれない。
日の目を見るという言葉に止まない野望を抱き、
こうした感情を総じて人は「スケベ心」と呼ぶことも理解しているはずなのに。