悪魔に魂を
百発百中の弓の名手に成るのなら是非にでも悪魔に魂を売る。
そう嘯いたことが幾度となくあった。
今日は現実にいた名手の話である。
いざ弓を執れば百射皆中、調子が悪くても90中は固く、
不動の異次元の射手というべき人がいた。
ここで歓迎されるのは射は典雅、人は上品ということであろうが、
何の事はない、普通に引いて普通に中たるだけのことにしか私には見えない。
しかし、彼の人は独特な感性を持っていた。
あるとき話を聞いたら、道場の床の凸凹が気になるから射の成否に影響をする、
という不思議なことを言っていた。
よく、中たる人間は上段から下手くそな射手に対して、権威を持って傲慢な事を言うが、
そのときの彼の発言は、本心から出ている朴訥な感想のような言葉であった。
それからしばらくして、彼はある人に弟子入りをして、
手の内に一癖があるからと弓力を何キロか落としたことがあった。
そこから的中率は二割に落ちた。
もうどうにも弱い弓を操作しても、軽い矢を使役しても、
自分の矢が届かず、なぜ中らないのかも理解できないということであった。
今では師から出奔し、元の弓矢に戻ったことで、
幸いにも率は八割ほどに戻ったようである。
以前の絶対的な姿からすれば、八割しか、中らなくなってしまったのであるが。
彼は一般的な今日の弓を引く人ではなかった。
流浪の民のように巷間の道場を流れて、
しずかに一隅で淡々と日に何百射と引いていた。
そのまま無名の名射手のまま、自分流を貫いていれば、ひとり百発百中の名手としてひっそりと暮らしていたはずである。
なにかが彼の邪魔をしたとすれば、
それは表舞台で華々しく戦果を上げることを囃し立てる周囲の雑音であっただろう。
つまり、彼の百発百中の妙を邪魔し、妨害する、
彼に対し鼻持ちがならないアラ探し連中の喰い物にされたのである。
まるで的に中たり続けることが重罪であるかのように。
けだし、悪魔に魂を売るとはそういうことなのだ。
中たることに対して巻き起こる世間の風雪に耐える精神性を備えていることが、
あたかも技術より大切なことになると教えている。