秋風や

芭蕉の弟子の去来の句であったか、

秋風や白木の弓に弦はらん。

湿気が失せて、一気に気温が下がり、秋口に白木の弓を引き出してくる。

そういう一句に則して言えば存外風流であるが、

何のことはない最近弓を買ったのである。

故人は弓をそれこそ何張りも購ったようである。

それは別に金持ちの道楽というのではなく、貧乏人であっても弓を求めるに安い時代があったためである。

いまでは一張の弓が黄金の如く、一世一代の買い物と(それこそ貧乏人には)なりつつあるが、

古来、弓を買い連ねることは贅沢にもならないことであった。

向井去来という俳人は弓を引いたようだが、

もしも、句の読み手である我々が一張りの弓しか想像しなかったとしたら、それは間違いである。

弓を引く江戸時代の人間が、白木の弓を一丁しか所持しなかったわけがない。

明治の中頃でも(今日の貨幣価値で)白木弓は一張三万円ほどである。

去来の描く世界の裏側には、弦を外して数ヶ月、湿気と夏熱に晒され裏反りもピンピンな弓が何張りも並んでいるのである。

それら一つひとつに弦を張り、調子を見て、さあこれからの稽古は調子の鈍い漆拭きの弓を置き、

秋風に吹かれ、すっと水気と湿度が引いた生き生きとした白竹の弓を使おう、

心機一転、弓にも新しい季節が訪れた。

「白木の弓」とは季節感の現れと、新鮮さの表現である。




さて、残念ながら一張の弓しか買えなかった私は、

某新しい弓職人のカーボン入りの竹弓をなんと購入したのである。

今まで鼻つまみものにしていた肉詰めピーマンに手を出したような。

それでいて肉の部分だけ食べるわけにもいかず嗚咽しているような。

見た目には全く竹弓にしか見えないが、

どうにも離したときに思っていない反動が返ってくる。

強い弓を引いても、反動が(グラスの弓に比べたら)全くないから竹は思う存分引けるのに、本末転倒である。

と思いきや、存外矢飛びはいい。

これは手の内が下手くそな私のために開発された天の贈り物に違いない。

弓を引き終わったら弓倒しをする。

腰のあたりに弓手の拳が戻る。

まだ弓が振動している。

発明した人は特許を取るべきであった。

そうすればこれほど普及することはなかったはずである。

私が引いている時はやはり弓返りも不自然なのだろうか。

よくカーボンのそれは弓返りで不自然な震え方をする。




例によって胴がほとんど入っていないため、

見るべきでない人が見ると「胴が抜けている」と言われる。

あれはどういう鑑識眼を持つものなのかと不思議に思う。

引きなりの美しさこそ見る人を感化するものではないか。

これは弓が下手でも関係なく伝わる機能美である。

「この弓を見ると下を踏みたくなる」

という人がいたが、以前踏まれて何日も悔いたことがある。

弓をブサイクに仕立てるために捏ねくり回す人がいる。

美醜の判断ミスは、美的センスに欠けているから起きるものであろう。

それだけ世の中には良いものが少なくなっているのである。




白木の弓、が詠まれた頃、世の中は元和偃武と呼ばれる太平の時代に入り久しく、

向井去来の時代には、西鶴の『好色一代男』が売れに売れ、庶民の生活を活写した官能性が持て囃され、

間違いなく、芭蕉十哲のような貧乏な前衛文学の徒は生きる場所などなかった時代である。

庵に隠遁した元武芸者である去来はそれでも、秋の風を感じ、

自らの武士の名残りである弓を離さず今日も枯淡の境地で秋空に弦音を響かせる。

矢場を隔てた表通りからは、賑やかで破廉恥な若い町衆の声が聞こえて来そうである。

これは、世の中に背を向け一心に自分の世界を貫いた人間の姿を映しているのである。




考えてみれば、

弓を引き、その傍ら、五七五の俳句を延々と綴るというのはどう見ても変人である。

今で言うフリーターのような去来は武芸者としての仕官の誘いを固辞しつつ、

(ということは弓の相応の腕前であったはずだが)

家業の手伝いをして宮中で陰陽師儒家のような知的労働をしながら、

享年54歳でこの世を去ったという。

身内が高級官僚と付き合いがあるため、それにぶら下がり清貧に生きながらえている文学者、と言えば聞こえはいいが、こうした人品は現代にも心当たりはあるだろうか。

通常、後年に名を成す人物は同時代人にとっての落伍者である。




去来という雅号についても、

去る来たる、という語意に時代を超越しようとした意思を強烈に感じる。

彼ら芭蕉の門人たちが描く世は、決して当時の生き様や世相を伸び伸びと活写したものではなく、

隣人からも隔絶して孤独な、それでいて世の何処かの同類とは接続する、一歩間違えれば名も無きネット社会のニートと同じような世界観を詠じている。

われわれは平和な時代に生まれた世捨て人を持ってゆとりと断ずることがあるが、

真に極まった人は戦国の最中でも、一心不乱に世捨て人を貫いたであろうか。