弓は人を
弓の大病には早気やもたれ、ゆるみがある。
ここに震えや不中を加えてもいいかもしれない。
ところがこのなかで、もたれはなんとなく会が長く見せ(魅せ)ることが出来るから不問に付される傾向がある。
会が射の見せ場(いわばシャッターチャンス)として人々に自分の弓を誇示する時間であるという認識があるためである。
一見して現代的な形にとらわれた考え方であるようでいて、こうした傾向はそれほど歴史が浅いものではないらしい。
あれは実際の秒数に直すと10秒程度会の長さがある。
あるいは、本多流の開祖は若い頃絶望的に早気に苦しんだというエピソードもある。
すなわちこれらのエピソードは、明治から大正にかけて、すでに会が短いことは弓道の恥とする概念があったことを意味している。
後世になり、真っ向からこれに対抗したのが昭和の名人といわれるI先生である。
西のM、東のIという呼び名は当代一流の人々に冠せられた世評であった。
すこし脱線するが、西の岡内、東の本多、今の時代ならどなたになろうか。
会が、会が、という考え方も、自分を一角の人物ならしめる必須の条件として武道たる弓道のなかでは切っても切れない鬱勃とした存在感を放っている。
これほど簡易化して考えるのもどうかと思うが、
速射をこととする戦場の弓を使役するとなると、会などというものはそもそも長いことがおかしい。
100%で放つ(私的には80で良いと思うが)という考えに則れば、
やはり会が時間でカウントされるのは本末転倒で、あくまで力の表現が100になればいい。
ところが近代以降の弓は人に見せる(魅せる)、他人に評価される感嘆を呼ぶ、ということをどこかの時点で具備するようになったのかもしれない。
簡易化して考えるのも、というのは実は近代以前にも早気になやまされる射手のエピソードは散見されるからである。
中里介山でも読むとよく分かるが、殿様から下賜された着物を的にしても早気が治らず、自らの子どもを的にして離れを思いとどまる訓練をした、という冗談にもほどがある小咄も江戸にはある。
ともあれ、弓と時間の関係は、おそらく三十三間堂の通し矢がそうであるように、早かれ遅かれ、その長短が評価の対象となったことは言うまでもない。
大矢数は早気に越したことはない、的射は見せ場として引き絞る器用さも必要とされただろう。
われわれは一定の弓の稽古を積んでいるようで、同じような弓の現れ方を練習にも試合にも求めているようでいて、実は、本来は時間の長短に縛られていたはずである。
それは過去の話であるが、伸び縮みする引き絞り時間(あえて会とは言わない)を使い分けることは数百年に渡って運命づけられていると思う。
もっとも、今日的な問題は遅気は比較的評価の対象になる、ということが不思議でしょうがないということであるが。
より評価されるべき、弓の強さ、引きなり(村が稽古の結果として除かれた完成された形としての)、矢飛び、等々はおざなりにされているのではなかろうか。
まったく、見る側の目が肥えていなければ魅せる価値もないのではなかろうか。
このことについては、弓を引く人の大半がサラリーマンであることも影響している。
仕事を終えて、夜半、弓道場にかけつけて弓を引く。
弓を引く本人もそうであるが、より一層見る側には矢飛びなど目にとまらないのだろう。
私の知っている人で、夜にしか会わない人がいるが、
たまには賢者もいて、照明に照らされた矢飛びを評価していた。
こういう人に会うとたまらなくうれしい。
最近では矢飛びを云々語る人も出会うことはまれである。
弓は人を現すというのはよく言うことである。
それは、道場での立ち振舞いで瑕疵があると鬼の首を取ったように非難する人、押し黙って人を小姑のように非難しない暗黙の賢者、本人が上手く引けなくても上段から物を言わなければいけない出世しすぎた人、静かに人の弓を見て自分の糧とする他山の石タイプ、的に中たる人は誰しも上手に見えるまだ目が肥えていない人、人にも教え自分にも同じ人から教えを請う毒のない人、など様々である。
我々が弓道をしたことの一つの成果、というのは語らずして通じ合い理解する、というメタ的な交流を可能にしていることである。
人は見た目が九割であるならば、見えるものの何割をわたしたちの眼は捉えているであろうか。