街角の名人たち

どんな街角にも弓の名人はいる。

私の知る限り、いまよりも弓の文化が華やかだった時代がある。

さながらスター・ウォーズのEpisode 0の世界であるが、

つぶさに見ると文化が興隆と衰退を繰り返している、まさに衰退の部分に残念ながら私たちは身を置いているようである。

その当時は今よりも街角の弓道場、当時の言い方では矢場が多く点在する時代であった。

それは今では都心と言われる摩天楼の一角にも存在していたようである。

幸か不幸かよく時代のことを知っている人から聞くことがあるが、

かならず20本を引けば九割という名人か主(ぬし)というべき人がどの道場にもいたらしい。

さながら名物オジサンであるが、私の童心にもこういう人は心当たりがある。

それは半矢の◯◯さんという人で、

前言を撤回して申し訳ないが、どうやっても的中率が50%を越えないオジイサンである。

物凄い早気で、だからといって中たる弓を引くのでもなく、

しかし外れないこともまずありえない人、

せいぜい誤差は±1で、20本を引いて悪くて9中、まれに11中すれば、おや今日は体調がいいのか、

と思わせるような人であった。

かれこれ二十年近く前の人で当時は70を越えていたから今はどうしているか知らない。

もしかしたらタバコの吸いすぎでもうだいぶ前に往生したかもしれない。

当時は道場内でも喫煙は当たり前であった。




街角の名人というのは今でもいる。

中たる人が必ずしも世にはばかるとは限らないのが弓道のマイナー武道としての、

ある意味、皮肉なのかもしれない。

ピート・ローズが変なバッティングフォームでメジャー記録を打ち立てても、

それは誰も批判しない。

彼を批判するのはそのあまりにも汚いギャンブル癖を持ってである。

しかし弓道の名人というのは、結構な記録を打ち立てるような人物であっても評価されないことが多い。

つまり、技術に人格に一癖あるような人物が多いからである。

これがプロスポーツではない弓道の宿命である。

純粋に結果のみを追い求めたところで評価されないアマチュアの壁、絶対的な指標があるからである。

我々が求めるのは全人的な、すべてを兼ね合わせた平均的な優秀者が一等になることである。



しかし今日の弓の衰退がある意味必然なのは、

全人的な優等生を登場させようという価値観の元で射手を養成しようとするところにある。

没個性的なのである。

弓は本来没個性的なものであることは疑いがない。

ではければ射術というのは、一人ひとり異なるもので無秩序の混沌しか産まない。

しかし手が長い人、胴長短手の人、猿腕の人、非力と剛力な人、おんなじように教える現代で、

不幸にして上手になる人は今の価値観にハマった宝くじの当選者のようなものである。

世に10数万人いる射手のなかでもおそらく数十人しか古き良き時代の弓を継承している人はいないであろう。

すべてはそんな時代に生きる儚さしか感じさせない。