ラトビアでのボランティア(1)
先月の初旬から中旬までラトビアでボランティアをした。
現地の学生たちに英語を教えるというものである。
それは首都リーガから100kmほど離れた、セーサス地区にあった。
ラトビアが1991年に独立するときは、ソ連駐留軍と戦闘が起きた場所でもある。
これはBattle of Cesis(セーサスの戦い)と呼ばれ、
現在その戦闘が起きた場所には、独立の象徴として記念碑が建てられている。
私が行った学校はそこからさらに車で40分ほどの、スクェエナ(Skujena)という町にあった。
町といっても民家間の距離は1km以上はあったが、
周りには森が広がっていた。実に国土の7割が森に覆われているのだ。
そして高地は最大でも300m程で、この国は非常に平らなのである。
学校は小高い丘の上にあり、晴れた日には遠くのほうに穏やかな地平線が綺麗に見えた。
ボランティアの初日は、簡単なゲームを行った
Chinese Footballという、皆が輪になり、足を開いた状態でボールを手で叩き、
上手く相手の股の間をすり抜けさせるというもの。
ただやるだけでは楽しくないので、ボールを打つごとに英単語を一つずつ言っていくことにした。
男の子は何処で覚えるのであろう卑猥な言葉を連発し、女の子は冷静に動物やスポーツの名前を言う
それは何処の世界の子供たちでも同じであろう。
彼らは英語を喋ることに臆病だったが、なにより笑顔が素敵だった。
私は当初、「これからの2週間でこの子達の英語を少しはまともにしてやろう」と意気込んでいた。
しかしそれを阻む落とし穴は、実は我々ボランティアの側にあったのだが。
-続く-
現地の学生たちに英語を教えるというものである。
それは首都リーガから100kmほど離れた、セーサス地区にあった。
ラトビアが1991年に独立するときは、ソ連駐留軍と戦闘が起きた場所でもある。
これはBattle of Cesis(セーサスの戦い)と呼ばれ、
現在その戦闘が起きた場所には、独立の象徴として記念碑が建てられている。
私が行った学校はそこからさらに車で40分ほどの、スクェエナ(Skujena)という町にあった。
町といっても民家間の距離は1km以上はあったが、
周りには森が広がっていた。実に国土の7割が森に覆われているのだ。
そして高地は最大でも300m程で、この国は非常に平らなのである。
学校は小高い丘の上にあり、晴れた日には遠くのほうに穏やかな地平線が綺麗に見えた。
ボランティアの初日は、簡単なゲームを行った
Chinese Footballという、皆が輪になり、足を開いた状態でボールを手で叩き、
上手く相手の股の間をすり抜けさせるというもの。
ただやるだけでは楽しくないので、ボールを打つごとに英単語を一つずつ言っていくことにした。
男の子は何処で覚えるのであろう卑猥な言葉を連発し、女の子は冷静に動物やスポーツの名前を言う
それは何処の世界の子供たちでも同じであろう。
彼らは英語を喋ることに臆病だったが、なにより笑顔が素敵だった。
私は当初、「これからの2週間でこの子達の英語を少しはまともにしてやろう」と意気込んでいた。
しかしそれを阻む落とし穴は、実は我々ボランティアの側にあったのだが。
-続く-