弓と阿波
最近残念ながら弓に触れる時間が少なくなっている。
毎週引いていたときは練習機会は週数回であったとしても弓のことは毎日考えていた。
しかしそれが全く途絶したとき、非常に残念なことに毎日弓のことを考えている自分がいる。
弓道は極めて限定的で定式化された所作をそれこそ何万回、何十万回と繰り返すなかで洗練された美しさを追い求める身体技法である。
すこし弓を途絶したぐらいで、今までそれを繰り返してきたしつこい人間性で解消されるわけではないようだ。
最近つとに思うが、弓を継続している自分は伝統の実践者とか高尚で奥ゆかしい人物ということは全然なく、単に粘着質の人間でしかないのだ。
このブログを毎日見に来る人は十人程度いて、よくこれだけ不定期で薄暗い内容の散文を懲りもせず覗きにくると思うが、十人十色の世の中で五十歩百歩である読者たちに感謝する次第である。
私が弓を面白いと思うのはその点で、従事する人間が一見して常識人のようでいて何十年も同じことを捏ねくり回す狂気を内包しているからこそ、他人に侵犯されても変わらない頑なさが愛くるしいのである。
最近はキチガイという表現も差別的でテレビ的言語はおろか、日常でも敬遠される世になったが、
弓キチであっても釣りキチ三平であっても、
なにか、に熱狂していることは本来排他的な凄まじさを有している。
人によっては現状は踏み台であって、これより高い世界で、神々の高天原で踊り明かしたいという上昇志向を自分が意識する限り(自分が気づいている限り)は掲げているかもしれない。
今の弓は栄光への第一歩、臥薪嘗胆のたたき台なのだと。
ただ大抵の人間は無縁にして、これからも何も表舞台の日の目など見ることはない。
そうであるなら弓をする理由などは結局、自分自身が納得できるか、というただ一点に終始する。
誰かに認められたいからではない、俺は俺が認める弓を引きたいから弓を引くのだ。
弓道は弓術からその呼称を昇華させたとき、
明らかにそこには新時代の体育を全体主義的に構築しようという意思が介在していた。
その頃は武道という古典主義的な共同体意識は希薄で、
徒競走や新体操、野球や蹴球なども存在していない時代において、
それは人々が思いつく体育の手段など武道以外にありえなかった時代の産物でしかない。
旧士族階級の出身で占められていた当時の武徳会上層部において、
麹屋のせがれである商家の小僧が弓矢の第一等に躍り出たことが斬新なのである。
いくら四民平等とはいえまだ階級社会を色濃く残す社会で、
尋常小学校しか出ていない商人が排他的な江戸400年の伝統で幅を利かせるのだ。
見る人によっては痛快な出来事で、古い人間にとってこんなに面白くないことはない。
そうすると大射道教のような後年の宗教活動をもって、実践の名人・孤独な夢想者として阿波を前後期に分けて捉えるような試みも違って見える。
しかもそれは翼賛体制で武徳会が国家との有意義な関係性を深めていく時代の出来事である。
大射道教をクローズアップして宗教とか技術的な新流として理解するのは違う。
阿波の高弟と言われている人物に士族出身者がいないのは偶然ではないだろうし、
阿波に与する人間は時代の中で袖にされていたことは否めない。
戦後になり吉田能安があえて武徳会を再興させたのは今日ではミステリーとして扱われているが、
活躍して当たり前の旧幕以来の弓術家はきっと力みが勝ち、
そのなかで何のしがらみもない阿波が京都大会で金的を射落とすのだ。
今は誰しもが大弓を手に取ることが出来る、そんな時代において彼は決して孤高のヒーローではなく、平民共の夢であったはずである。
(阿波研造の特異性と彼を巡る時代性は今にしてなお十分に考察の余地がある面白いテーマだ)
弓道においては中る人間こそが、素行や射法に難癖つけられる余地があっても、他人を凌駕する力を持つ時点でトップなのだ、という考えと同じである。
東北帝大弓道部に入ったある小笠原の門人が、阿波の見る前でこれみよがしに一手を的中させた。
強い弓をさっと引き、会は短く、これが一門の弓なのだと得意げになって鼻を鳴らす。
刹那、阿波は彼の弓を取り上げ「もう君は弓を引かないほうがいいだろう」と言ったという。
俺は俺が認める弓を引きたいから弓を引くのだ。
さて、それを聞いて偶像阿波は今何と言うだろうか。