弓に関するエッセイ

よく出入りする弓道場での話。

その場所は、誰でも自由に出入りができる公共の場では「珍しく」オープンな道場であった。

来る人来る人が黙々と自分の弓を引いている。

「公共の」というのは本来出入りがしづらい場である。

よそ者の弓道家が足を踏み入れると、足繁く通う人から好奇の目で見られたり、射法の指導が始まったりする。

誰もがアクセス可能で、料金を払えば平等であるはずの場所で、常連が幅を利かせるような縄張り意識が公共の道場でも生まれる。

(それは、しがらみと言ってもいいかもしれない)

新参者が意を決してよその道場に足を踏み入れたとして、それが弓道場である限り世界中どこに行っても28メートル先に的があることには変わりはないが、お前は誰なのか、どういう弓を引くのか舐めるように見られて、ひどい場合だと先生病の輩に絡まれて自分の射を崩す災難に見舞われる。

弓道は出稽古をすればするほど本来、外圧にさらされるものである。

一見してこうしたことは、武道の礼節からも程遠いように思えるが、

しかしもっと本質的なことは、全国にあまねく存在する公共の弓道場というのは、一つ一つが本来排他的で他所との交流が希薄なムラ社会的な場ということである。

都会であれ、片田舎の弓道場であれ、

弓道場が真の社交場であるなら、そこで出会った人同士は弓を引き終わった後に茶の一杯でも誘い合い本日の射技について検討を重ねるのが成熟した現代のあり方ではないだろうか。

ろくに弓道場以外の付き合いがあるわけではないのに、一歩外に出れば道端でも挨拶しないような関係性であるのに、無理に他人に突っかかる理由などない。




先日、とある公共の道場では控えの座でiPhoneの設定がいかに難しいかを老夫婦が議論していた。

控えの座とは、射場内の射位の立て札から数歩下がった本座のことである。

そこには私と老夫婦の三人しかいなかったが、やんややんやとうるさいこと極まりない。

これを私は弓道デートと呼んでいるが、

男女の付き合いは射場に持ち込んではいけない。

それはその後のティータイムに取っておくべきだ。




武道の礼節を重んじる格式高い弓道の世界にあって、実のところ、本当に弓道場に足を踏み入れたときに、デート気分が抜けない人間が多いことは否めない。

身内の弓道家しかいないと勘違いしているのか、射場で一所懸命にすり足をしていても、休憩所ではドスドスと踵で音を鳴らして歩く称号者を私は何人も知っている。

武道の伝統に則して表現するなら、この人たちはスキだらけである。

デートとなれば否が応でもオモテウラを使い分ける。

普段は着ない取っておきの一張羅、気合の入ったヘアセット、お腹が痛くても絶対に大便はしない。

しかし射場と休憩処でそれだけ態度が違うことは、かっこいい自分とスウェット姿のだらしない日常を同じ敷地内で使い分けていることと全く同じである。

ならば射場でもドスドス歩いてくれたほうがよっぽど嘘くさくなく好感が持てる。





弓道の世界には、表舞台からこぼれおちた残滓のような端くれ弓道家もいる。

しかし残滓のようなダイヤモンドのクズにも本当は光輝く原石がある。

踵で足音を鳴らす人こそ気づかないもので、弓道を知ってしまったが故に、嘘をつけないがあまり、お茶の間の人間と仲良くできない不器用なクズどもの、愛すべきバラバラの共同体である。

路地裏の賢者、隠れた名人、出世を望まないが現状を憂いる若手、本当は自分が世界を変えたいと思うが実力が伴わないが故にくすぶる輩もいて、誰もが知る世界で一身に栄光を集める太陽もあれば、床も枯れた道場の一隅でなお隠しきれない百発百中の恒星もある。

弓は、それが他人を中傷するものでない限り、見る人に同じ輝きを与えるものである。

それが日の本一の大舞台であっても、雨が降れば弓が引けない野立ちの山野であっても、

今の弓に士農工商の別がないことは、先祖が三十三間堂の名人であっても、江戸以来の旧家の出であっても、血ではなく弓がすべてを語るという唯(ただ)一点に終始する。

心に残る弓は、どんなに低段者でも弓以外の日常がどんなに低段者でも否応なく、忘れられないものである。

矢は嘘をつかないし、本人でさえつけるものではない。

よれよれの袴で百発皆中の射手もあれば、上等な縞袴で的に届かないコスプレ人士もいる。

嘘を付けない真実を矢飛びや的中に私たちは見ている。