手の内
松井秀喜はMLBに移籍した当初、外角の変化球に苦戦した。
外に広いといわれるストライクゾーンとも相まって、日本の投手には見られなかったクセ球に翻弄されていたといわれる。
「それは魔法のような言葉だった」と後に述懐するのは、監督であったヤンキースの名将ジョン・トーリに半歩下がってボールを見極める間を保つよう助言を享け、わずか数センチの空間が松井の世界を変えたからだという。
以来、移籍初年度の松井の成績は徐々に改善していった。
翻って弓道の世界でも、先日こんなことがあった。
私が手の内に苦労しているとたまたま巻藁小屋に居合わせた人が、上押しがきつい、と言った。
自分ではそんなつもりもなかったが、こうですか?と直すと、まだまだ上押しがきついという。
思い切って数ミリ変えてみたら、その通りで、ほんのわずかな違いでしかなかったが何かが改善し、結果的にそれは魔法の言葉だった。
次に的前で引いたときには急に様々なことが改善されて、まるで狐につままれたようであった。
なにかずっと答えが欲しいと迷っている時にこそ、ヒントは突然降ってやってくるようだ。
一分の手間が人を変えるように、私たちはある日なにかが天啓のように空から舞い降りてくることを無意識に期待しているのかもしれない。
もっとも、強く願わないことにはヒントも馬耳東風のきらいがあることはいなめないが、
自分がここが課題と思っていることは、他人から見てどんなに取るに足らない些事であっても、間違いなくその人を活かすも殺すもを自由にする泣き所であることは間違いない。
結局のところ、自分が違うと思うトンチンカンなアドバイスをする人は永遠に外野である。
特にそれは、馬手のことをやかましく言う人にありがちなことであるが、
しかしどんなに狭い心の持ち主にも一滴の雫が入る余地はあって、
それを言い当てる人は、
普段何かを自分に懇切無礼に教えてくれるやかまし屋であることは少なく、
すなわち良い師とは、多弁を弄しない人のことだろうと思う。
一方で、「一人稽古に上達なし」ともいう。
それはあるとき何処かで少しばかり名を売っている人に不意に言われた言葉であったが、誰かの言葉にかき回されるくらいなら自分で自分を救う道を見つけるのが弓道だと思っていた私は、なぜか今でも心の片隅でその言葉を引きずっている。
問題は、たった一人の人間の理論だけを純粋に吸収するような環境がもしあれば、たとえそれが多少おかしくても、享受する側に迷いは生まれない、排他的宗教のような心地よさがあることだろう。
われわれは外に出てこない隠された技術を「門外不出」として神秘的に感じるが、
なんとなればそれは他人の言葉に惑わされない純粋培養であることから、多少の過ちが含まれていても気にせず一定の練度を達成した技術のことなのかもしれない。
古人が出稽古を戒めたり、他流との交流を疎んじたのはこうした理由なのではないだろうか。
このことは、色々な弓道場を見ていると特に傾向として顕著であり、
すなわち同じ寄り合いは同じ的中率であるという、社会学的に非常に興味深い同調的な結果が観察されることにも裏打ちされる。
強い、とは個人のことというより、集団性を前提にしたものである。
一人稽古に上達なし、というのはもしかしたら斯様な集団性を言っていたのかもしれない。
話を弓道に戻そう。
個人の努力次第でなんともならない世界というのは私は嫌いである。
天才とか天禀という言葉に片付けられて、上手な個人を切り捨てるような衆愚性を感じさせるからだ。
同じ輪の中にあって一人だけ飛び抜けている人物が特別な努力をしていないわけがない。
弓が冴えるのは神の御業によるものだとでも言いたいのだろうか。
それを阿波研造本人が言うなら分からなくもないが、
私たちはある晩ヘリゲルが目撃したという暗中の的や阿波が体験したという大爆射というエピソードを、どこか他人行儀に聞く傾向がある。
その程度のことが自分に起きないはずがないのだ。
結語として前向きに締めておくと、自分が下手だと思っているうちはそれは間違った謙虚さであり、
絶対に他人には言わないにしても、われこそが日の本一の弓執りだと思い続けることだ。
超能力者に自分の心が読み取られるなら話は違ってくるが、
そんなエスパーが世の中に溢れていない現代であるからこそ、
自分の心だけは一人稽古の名人でありたい。