老いとは
縁があって京都大会を観戦することができた。
緑色の大会冊子を読んでいて二〇〇〇人のいる射手の中で「この人は…」という弓引きがいた。
むかしDVDで射を拝見して凄いと前々から思っていた人だった。
観客席の人混みで背伸びをしてずっとその人の登場を待つ。
立ちの番号と冊子を照らし合わせて今か今かとじれていると、当の人がようやっと出てきた。
映像で見た若い姿とはだいぶ違う。小柄で白髪交じりで六十はゆうに越えている。
弓構から打起に入ると拳にはだいぶ震えが出ていた。
ほんとうにあの人だろうか、しかし射形は映像と寸分違わない。
「今日は強い弓を持ってきたな」
知り合いだろうか、後ろにいる人がぼそっとつぶやいた。
引分けに入っても震えは止まらない。
しかし何百回と見たDVDの姿通りに両肘がおさまると、震えはぴたりと止まった。
次の瞬間、火の出るような矢飛び。
矢は的を貫き、安土の代わりに立ててあるスポンジを大きく鳴らした。
二〇数キロの弓力だ。
乙矢はおなじように引いて的のすぐ下にはずれた。
その弓人とは全く面識がないが、震えが出ているのを見たとき思わず泣き出しそうになった。
なんとも形容しがたい感情だった。
畏れ多くも射を論評するつもりもなく、
ただ時間との戦いのなかで切り裂かれていくものを遠い目で眺めている気がした。
本来ならこの邂逅に際して感涙したと言うべきなのだろうが、この複雑な気分は説明しようがない。
感動もしたが、時間の冷徹なはたらきも見た。
老いとはなんだろうか。
弓に限らず、身体のはたらきが鈍くなり新しいものごとを覚えられないようになれば、
そのとき自分の姿は誰の昔姿に重なるのだろう。
DVDの射手は苦しいような笑っているような顔で強い弓を引いていた。
あるいは、それでいいのだと思う。