なんとなく書いてみる

 プロコフィエフソナタを聞くと、天蓋のない原色の世界で、

彷徨するような奇妙な感覚をおぼえる。

何ら形而上学を旅する感性をもたない卑小な身にありながら、遠い世界のどこかに、

これに類似する地平があることをおぼろげに信じている。

ただひらすら想像の中に浮かぶその球体は、小さく、

かなたがすぐ近くにあるような世界である。




そこには旅への恐怖はなく、

惑星の反対側に到達するまでにわずか8分間の時間しかかからない。

それが形而上学的な色彩をもつのは、夢想の旅路にとって便利であり、

想像力さえ携えれば、人をして超自然を畏怖させるものが何もないからである。




 いま足を動かしてみる。しかしそれは一人称の視点ではなく、

自分を正面の斜め上から眺めた移動であり、

黒く塗られた地面に白いストライプのような道筋をただ前進するだけにすぎない。

ここでは時間の感覚は希薄で、進むという行為そのものは、運動のイメージを伴わない。

丸く浮かんだ地平線上に灰色の城を眺めることができる。

わずか3分間ほどで到着するように思えるその城は、すぐ近くにあるように見えて、

たとえば地球上の雲か蜃気楼の現象ように、

実際は何処まで追いかけても辿りつかないことを漠然と知っているような気がする。

すべてが静的なように思える世界も、

実は原子の不断の運動によって成立しているのだろう。




 音は聞こえるだろうか。

わたしは地球にいても聾に等しい薄弱な聴力しか持たない。

耳をすませることは、まるで無効であるように思える。

ソナタの響きで乗せられてここまで連れて来られたものの、着いてみると、

ここでは音を媒介する空気が存在していないことに気付いた。

五感のうち正常に機能するのは専ら視力のみで、

それも原色の彩りしかもたない球体の上では、ものの役には立たない。

なんとなれば目をつむっても、斜め上から相変わらず自分を眺めているし、

ここには数えるほどのものしか存在しないのだから。

黒い地面と、白い道、灰色の城に付け加えるものがあるとすれば、

何者かに付け加えられた星空の天幕と、

天頂のあたりからだれかが自分を見ているという感覚だろうか。




 いや、目を凝らせば、白い道は10秒ほど歩いた先で、

大きく落ち込んで見えなくなっていた。

そして、そこからさらに1分ほど歩いたあたりだろうか。

道は突飛な角度で黒の地面から顔を出している。

中間には幾何学的に窪んだ谷があると思われる。