弓の少し抽象的な話
よく弓の引き方を根本から間違えているのではないかと思うことがある。
道場で引いている人たちがスマホで射形を撮影してもらっているのを見るが、
あれは信じられないような勇気であるし、蛮勇とさえ言える。
昔自分の声が録音されたテープをたまたま聞かされたことがあるが、死にたい気持ちになったのと同じ。
どうして自分は上手くやっているつもりでも人から見えている自分の姿を見せられると、全く上手く出来ていない。
中には出されたくない人、見たくもないのに公開されている人達も居るであろうと思う。
それほど自分と他人から見た自分の姿というのは乖離しているものである。
しかも今回は内的な話である。
その他人から上手く引いていると評価されていても自分に違和感の小粒さえあれば、やはり納得がいかないのである。
(勿論それは弓に限定されないことであるが。)
その小粒の違和感のために何年も悩まされている気がする。
中空の動作ではなにも違和感がない。しかし矢を素引きをする、ゴム弓を引いてみる。
弓の素引きをしてみる。矢をつがえて巻藁で引いてみる。
今度は的前に立ってみる。
徐々に自分の理想とはかけ離れていくのが道理である。
こんな弓を引きたいなあという理想像から始まり、ついには自分の的前の射形を動画で見せられ、
結局あまりの格差にがっかりしてしまうということが幾度もある。
何年何十万本も引いている末にそうなのであるから、結局たどり着かない境地があるのかとさえ思う。
そして冒頭の根本から間違っているのではないかという不安に行き着くのである。
精神の放浪の話はさておき、最近はよく弓の練習をしている。
今住んでいる地域には複数の道場が点在しており、出稽古というか、地元あるいは半地元の弓場に行くことが多い。
行く場所の先々で新しい弓引きに出会い、たいして話すことは多くはないが(黙々と練習するのが多いためである)、お互いの弓は語らずとも横目で見つめるのが弓引きのサガである。
多くは語らず、弓の引き方には直接言及せずとも、「今ままでどこで引いていた」とか「どういう道具を使っているのか」という話題を何気なく交換するだけで十分にお互いを意識しているということになるのである。
最近は自然そういうことが多いように思う。
先日は初めて手の内のことを聞かれた。
どうしているのか、と。
それがとても嬉しかった。
向こうは年配で自分よりも弓の歴史が長い人で、たしかに悩んでいる風な引き方で、会話には微塵も悩んでいる風は吹かさなかったけれど、これは聞かれているということが明らかであったから嬉しいのである。
それはある程度まで来たということであろう。
我々は一般にずば抜けている人のことをもって、あの人は最初から才能があったとか、凡俗とは異なるとかいう考えで切り離してしまって、自分のヘタを正当化しようとするきらいがある。
そういうことをしている限り上達の望みはないのである。
よく、的に中らなければ道具のせいにしなさい、という言葉を師からかけられたことがある。
それは自分のせいにするな、ということであるとおもう。
自己責任にしたら即ちそれが自己の限界なのである。