雑感

ずっと以前から不思議に思っていることがあった。

今日も弓の話である。

もっと引きなさい、会をもて、という人が三人か四人ほどいる。

ところが全員自分が言うことを自分で出来ていない。

奥ゆかしい指導者とは、他人にのたまうことは自身が出来ていると思えることを指導するものである。

人に自らの欠点を求めることをすなわち夢と言う。



しかしながら指導者とは、自分が出来ていないことを人に教えなければならないのが世の常である。

教える側は鳶が鷹を生む心情で技を伝授しているのかもしれない。

畏れ多くもビクが出る人が離れを教え、早気の人間が会をもて、と指導するのが万世一系の現代である。

(早気に関しては、熟する時季の違いによるため人それぞれである)



先日こういうことがあった。

君は強い弓を引いているから四つがけがぴったりだ、という人がいた。

もう三本指に戻して二年が経とうとしている。

初めてその先生に会ったのは四本の時であった。

もっと言うとかけの色も違うのだが、もしかしたら何か夢を見ていたのかも知れない。

人に何かを教わる態度として自戒を込めて言うと、自称「先生」が酔っていないか確かめなかったことを今になって後悔している。

どう考えても相手が酒臭くもなく、何気ない一言をいったわけでもなかったのだが。





どういう立ち位置で接しようか迷っている政治家がいて、

困ったことにその人は過去に弓道経験がある還暦も過ぎた人だった。

一日、子どもに弓を引かせていた場に訪ねて来たことがあった。

つかつかと歩み寄るなり、おそらく当人も覚えていないであろう何気ない一言で、

「いいか?弓は引くんじゃないぞ、押すもんだ」と言った。

女だったら濡れているし、有権者なら投票せざるを得ない。

その政治家はもう弓から離れて四十年が経っている。

弓道界の得失とはそういうことをいうのだと思う。



明治の達人、梅路見鸞は廊下を奔る鼠を木の枝で真っ二つにしたという。

このエピソードをもって彼は剣術にも秀でたマルチな弓道家と理解されるが、

武士が弓も刀も当たり前のように出来た名残りであることを大抵の弓道家は忘却している。

よく弓をしていると言うと、では流鏑馬も出来るのですか?と問われることに似ている。

不勉強な一般人士のほうが、昔ながらの武士の姿をよほど捉えているといるのである。