朋輩

初めて会った人のなかにも不思議と気が合う人がいる。

それは年齢や性別すら関係ない。

以前から考えていた流派の仕組みについて全く同じ意見を持っている人にたまたま会った。

自分しか世界の中で気づいている人間はいない、という気持ちでいたので

悔しがるところかもしれないが、やはり友が出来たような気がして嬉しかったのが本音である。

世の中の大抵の研究は欺瞞に満ちているが、

偽物に辟易としている少し上段に構えた、それでいて袖にされているような連中のたまり場で、

孤独な煙草を吸っている人間同士が触れ合ったかのような。

その人を車で駅まで送っていこうかと思ったが、急に仲が良くなりすぎるのも違うような気がして、

またいつ再会するかわからない誓いにも満たない礼をして別れた。




さいきん研究について色々人の思うところを聞くことがあったが、

どうにも詰めが甘く真剣に耳を傾けさせる情熱のようなものを感じない。

私のような巷間の流れの近眼読者にそう思われるわけだからしれている。

大抵の研究者にとって研究とは流れ作業化してしまっていることは悲しむべきことである。

一つの言葉を千の方法で考察する時間がないためである。

そのため、導き出された結論は表層的で訴えるものがない。

本人が訴えようというほどの息吹を吹き込んでいないためでもあり、それが情熱の欠落である。

私たちが他人を感化させる手段は最も簡略的には情に訴えることである。

中身がないようなことでも人の興味を引くのは、時間をかけているというより、

あけっぴろげな感性を目の前に差し出しているからである。

それは一種の詐欺であるから置いておく。

しかし詐欺にも満たず、精巧さもないものが多い。

スイスの時計職人が一つの時計に二年を費やすのは、

精密さと完璧を期すとその程度の時間は当たり前のようにかかるためである。



ひるがえって、研究にも明治工芸や根付の彫金の複雑さに似た、

延々と時間をかけることで繰り出される他を圧倒する緻密な世界が存在している。

それは畢生の大作ではあれど、浩瀚な書冊である必要がないことは例えば中島敦のような人がすでに教えている。

わたしもきっとそういう世界に生きたいのだと思う。

初見で気の合った人は一つの物事をすくなくとも10の視点から考えていた。

私はいくつ視座というものを持っているであろうか。

まったくぱっとしない二人だが我々こそが本当の真実を捉えているとしたら、

そんなに愉快なことはそうそうないことであろう。