弓と心?

古来、弓を心と結びつけることはあまり盛んではなかった。

戦場で命のやり取りをする上で自らの心を省みることに価値を置かなかったためである。

敵を斃せば生き、射抜かれれば死ぬという簡単な結論しか用意されていなかった。

近世に入る前、日置流が誕生した頃に今で言う的前が始められるようになった。

しかしそれは集団で一斉に狙った所に矢継ぎ早に斉射をおこない、

正方形の矢弾幕を張る組織的な戦術のためである。

日置流の弓隊が目覚ましい戦果を上げたのも練磨された殺陣の弓を奉ずる努力が根幹にある。

いまでは中らないことを弱気や精神の問題にして蓋をしてしまうが、

技術的な問いを等閑視した武道らしい盲目的な帰結である。

計算や数字で考えようとしないと射術の失敗は心に逃げるきらいがある。



人間の無意識を発見したのは西欧のいわゆる精神分析家のしわざであるが、

そもそもそれは「心が誕生した」というべき記念碑的な出来事であったと思う。

動かざる的、常と同じ高低差、弓矢の道具、なるほど確かに一定の物事の中で

動揺するのは人間の精神であるとはよく言ったものである。

われわれの武道の中ではドイツ人の畢生の大作が尊ばれることがあるが、

それは考え過ぎな人の好む人情話に似た無用の長物ではないだろうか。

不思議と本当に的を外さない人はどこか冷めたところがある。

彼の名人たちは「心」など持っていないのではないかとすら思う。

ときに文字も知らない、孫悟空のような、何かに支配されない自由さに浴し、

では心とは、という要らない問いに振り回されないことが本当の姿であろうと思う。

生まれながらに悟ったのが名人であるならば、哲学に好かれた人たちは生来の業を背負った人である。

どちらかと言えば後者のほうが、評価されることに気づかないふりをしているうちは、

きっと上手にはなれないと、思う次第である。