佛と弓と教養と

最近くずし字を勉強している。

よく弓の世界では仏の旧字体である「佛」を持って次のように言うことがある。

菩薩は弓と二本の縦棒、つまり一手の矢を携えている。

だからホトケ様は弓を引いているのだ。

それに愛染明王は弓を持っているだろう、と。

これは漢和辞典すら読んだこともない人の浅はかな言論である。

ホトケは悟りに達した人のことであり、「弗」はすなわち「無」の意である。

そのため新字体では人偏に「ム」で仏と書く。



「佛」という尊い字にこうした間違った考えがまとわりつくのは悲しい限りである。

それは教養の問題であろうと思う。

もっと詳しく言うなら、妄言を打ち砕く探究心の枯渇と、ぽっと出の妄想にきちんとした調査を加えようとしない怠慢により惹起されたものである。

私が調べた限りでは、ここ百年ほどは(ある意味確信的な)妄想と盲信の共存関係が弓を生きながらさせてきた。

開国以後の伝統武術の存在意義が危ぶまれた時代には、仕方がなかった側面もあろう。

だがこの当時、18世紀の一書籍に過ぎなかった『葉隠』が「武士道」の濫觴として引き合い出されたのは偶然ではない。

江戸中期という極めて平穏な時代に著された書があたかも救国の真髄として明治以後にクローズアップされたのは、愛国心の発生と愛国の手段の模索によって掬い上げられた結果に過ぎないのだから。



愛とは盲目であろう。

Love never means having to say you’re sorry. 

愛とは決して後悔しないこと)というハリウッドの酔言もある。

しかしそれは異性への導入にこそ許容されても、人以外のものを愛する時、我々は決して冷徹さを欠いてはならないと思う。