ひさびさに色々と。

もうこのブログも十年続けている。

最初に始めた時はヤフーブログが始まったばかりで、一度アップロードボタンを押した記事がなかなか実際にはアップロードされず、仕舞にはタイムアウトになり何時間もかけて書いた記事が泡と消えたことも多くあったように思う。

その頃ブログを始めて、同時期に友だちになった人も多くいたが、数年のうちに辞めてしまった人が大半を占めているようだ。ようだ、と言うのは実際自分でもよく把握しておらず、Facebookの友達の数が一人減った、あるいはmixiのフレンドの数が一人減ったと数字の上で分かってはいても、それが誰なのかようよう思い出せないのと同じことである。

さいきん引っ越して新しい生活が始まったため、それが自分にとっても何かしらの変化がもたらされるものと、特に期待はしていないが、身構えつつも思ってはいた。

しかし実際、とりたてて生活に変化はない。

インドに行って価値観が変わる奴は、隣町にいっても変わる奴。

という至言を元猿岩石の有吉弘行がしているそうだが、なかなかどうして良い言葉である。

良くも悪くも変わらないのが個性である。

それでもなお、頑なに変化を拒む石頭的人物の性格が変化するのなら、それはたまさか変革のきっかけにめぐまれたというよりは、もとより自分の弱点に自覚的であり、それを叩き直す機会を目の前に見つけ、思い切って飛び込もうという決意が立ったからであると思う。




抽象的な話はこのくらいにして、とりあえず弓道の話をすると、

引っ越してから前よりも一キロほど弓道場が近くなった。

といっても、前が三キロで、今度はニキロ弱になったという話でしかないが。

あまり弓道中心の人生を歩んでいるつもりはないのだが、知らず、弓道場の近くに住むことが多いのは、

全くもって、偶然の産物である。

地元の弓道会に面通しをして、然るべき人物に礼儀を立て、さあ、これから入り込み、

次々と我こそはという田舎弓道人士を駆逐しようという気持ちで引いているのだが、

本日はたまたま地元の国体の強化練習が開催されていた。

といっても参加していたのは指導者を含め四名で、そして自分を含めた五名で六人立ちの道場で練習である。

それだけ言えば侘びしさしか感じられないが、実はそうではない。

やはり国体の代表を張ろうという人物の集まりであるから、自由練習は適当に引いてはいても、

立ちでの練習になるとスイッチが入るのか的中が大いに伸びる。

中たるだけではない、矢も早くなる。

これが代表という座を狙う人たちなのである。

最初は大したことないと思っていている相手でも、中てることに関してはやはり持っているものがある。

気持ちとか気合とかいうものが特に感じられるわけではない。

なんとなれば普段と変わらず引いているだけである。

しかし矢の伸びと的中は違う。

あれはどういったところに源泉がある力なのだろうか。

もしも自分に足りないところがあるとすればそういったものなのだと思う。

自身に関しては、さんざん胴造りと口割、頬付け、肘力の馬手の距離について言われる。

普段は初対面の人間に言われると、横槍が入ったような気がして、釈然としない気持ちでいるが、

小一時間人の射を見た上で、自分が何年も悩んでいることをピタリと言い当てられたことから、

なんとなく友だちが増えたような気がした。

指導というのは射手が欲しい答えを与えるものであると思う。

そこじゃない、というところにいくらアドバイスを与えたところで響くところは少ないのである。





練習もそこそこに、立ちと自由練習で合計40射ほど引いたであろうか。

的中は半矢ほどで、最近の不調を象徴するような結果である。

新道場はこれが困ったことにビニール的なのである。

ばちん!と一つの太鼓を三人で同時に叩いたような下品な的中音がする。

あれは貫通力があれば紙的のような優しい音がするのだろうか。

今度25キロ直心と45グラムの矢で試してみようと思うが、おそらく変わらないだろう。

当面の目標は、大きな音が鳴らないような的中を得ることである。




本日はとくに気合が入った練習というわけでもないようで、途中で帰る人が三人。

最後は自分ともう一人斜面の人が道場に残った。

ずっとだるそうにしているし、なによりひょろっとした体躯の人だから、一人になって引くタイミングを見計らっているのだろうかと気遣いをしてみて、外で煙草を吸っていたのだが、どうやら人がいるとかいないとかそういうことは関係ないようで、自分の弓に集中して一向に引き納める気配がない。

体重で言えば60キロほどか、身長で言えば175センチとか、余程スキージャンプのほうが似合っている体形である。

例のキチキチ音をさせつつ離れをすぱっと出して的中を得るという斜面の人のアイドル的な引き方であったが、同時に練習を終わって、道場の片付けもして、着替えをしながら一緒に語らう機会に恵まれた。

そうしたらどうして、一日の最高射数が520本だという。

的中で人にかなわないことは多く、あまりにも多くあるが、射数で負けることが殆ど無い自分が、一日300射を誇っていたのを心から恥ずかしく思った。

彼の人は9時から夜の9時まで、一度に24本持って的に入るという。

疲れたら疲れたときなりの引き方もあり、かえってそのほうが的中が伸びるという。

その気持もわかっているつもりであるし、的中が伸びる、という表現がとても共感できたが、

なによりもそれだけ細身の人が自分よりも遥かに多い射数を納めていることに久しぶりに衝撃を受けた。

誰にでも弓において他人に負けないと思っていることはあるはずである。

ある人は会の粘りであり、ある人は手の内であり、ある人は弓の強さであり、ある人は弦音であり、

またある人は知識であり、ある人は体配であるだろう。

どれほどこの人には適わない、あるいはそもそもその人とおなじ土俵に立つ気はないという気持ちはあっても、自分と同じような弓を引いている人が自分を凌駕するところを見せた時は少なからぬ衝撃を受けるものである。

私の場合は射数で、いつかは千本でも一日で引けたらいいなと日和見主義的に思ってはいたが、

どうして、目の前に500余を引いた人がいるではないか。

そういう意味でエンジンがかかってきたと思う。

インドに行って価値観が変わる奴は隣町にいっても変わる奴というが、

ご多分に漏れず、私もまたその一人であるようだ。