CMと集中力
今月号の文藝春秋では高倉健の追悼特集が組まれている。
なかでもノンフィクション作家の沢木耕太郎の文章が面白かった。
そして今から30年ほど前、アリ38歳の年。
ボクサーとして晩年の彼は、ラスベガスで四回目の世界タイトルマッチに臨む。
結果としてアリが生涯初めてTKO負けを喫する試合である。
試合に先立ち日本にいた沢木は渡米すべきかどうか悩み、悶々とする。
しかしそうこうしてる間に時は過ぎて三万枚ものチケットは完売となってしまった。
急に諦めきれなくなった沢木は知り合いのボクシング専門の写真家である林一道に頼んで、
何とかチケットが入手できないかと頼み込む。
アテがある、と伝えた林は翌日あらためて「入手できた」と連絡をしてきた。
そういう事情ならお譲りしましょうと応じたのが、何を隠そう高倉健だったのである。
嬉々としてラスベガスに渡った沢木は高倉健から譲ってもらった席で世界戦を見たが、アリの敗戦を目の当たりにして、呆然としながら夜のカジノを回り、一向にホテルの部屋に帰る気にならない。
しかし深夜になり戻ってきたとき、ホテルの廊下にはタイプライターの音がこだましていた。
ホテルには記者が多く泊まっていたため、あちこちの部屋で締め切りに間に合わせるべく仕事をしているのである。
私用で来ていた沢木は特に記事を書く必要はなかったが、タイピングの音を聞いて、高倉健ただ一人のために観戦録を書くことを思いつくのである。
書き上げた文章を高倉健の元へと送り、それが縁となり、ラジオ対談など一緒の仕事が増えていていくというストーリーになっているが、
そこで突然「動く会社 JR東日本」という文章が挿入される。
新幹線の線路を検査する車両の話が延々6ページに渡り紹介されている。
わら半紙に白色のページを挟んでいるから、色違いで別文章だと分かりやすくしているが、
しかしどうしてこういう構成になっているのだろうか気になって仕方ない。
あるいはオナニーの最中に母親から電話がかかってくるのと同じである。
興が削がれ、集中力が切れてしまう。
気になっている間に沢木耕太郎の文章にも興味がなくなってしまった。
少し考えてみたい。
ひと続きの文章の途中に全く別の文章を挿入するというのは、言ってみればテレビのCMと同じである。
テレビで映画を見ていると物語に一区切りついたいいところでCMに入る。
これはトイレに行きたい時には助かる。
なんでも鑑定団は鑑定額発表の前に唐突にCMに入る。
これはどちらかと言うとじれったく、他のチャンネルに変えている間に結果を見逃してしまうことがよくある。
しかしよく考えてみると、私たちが中断なくして一つの物語を読んだり見つ続けたりすることの方がむしろ稀ではないだろうか。
たとえば、CMのない、中断のない物語は何だろう。
映画館やDVDで見る映画、単行本の読書などである。
映画館で映画を見ていると携帯を見たりトイレ行こうか迷ったりして話に集中できないことがある。
現代人の読書にしても、一冊の本を中断なく読み通すことのほうが珍しいだろう。
私たちは何らかの事情で中断がもたらされ、半ば強制的に集中力を切らされることに慣れてしまっている感すらある。
最近では余り言わないが、カウチポテトやザッピングというある種のお茶の間文化もこれに類するものである。
テレビやyoutubeなら延々と見ていられるという人は多いかもしれないが、
それは一つのことに集中しているようで、実は大して集中していないからこそ継続できているのだ。
本当に集中して映画を見ればほんの二時間でもどっと疲れるものだし、
良い読書とは肩が凝るものである。
改めて、文藝春秋の新幹線の挿話を考えてみる。
物語がぶつ切りにされることは、話にメリハリをつけ、見るものの関心を惹き起こし、
ある種の価値を創出するが、そうして生まれる価値にはそもそも大して価値はない気がする。
化学調味料はお肉を美味しくするが、そうして味が改善される肉はそもそも大して美味しい肉ではない。
本当に良質な肉は大食らいできず、少量でも胃にどーんとのしかかり毎日食べたいとは思わない。
プロのマッサージにはもみ返しがある。
良質な温泉に慣れると家の風呂で体が温まらなくなる。
オナニーは何回でもできるが、セックスをすると暫くセックスのことは考えたくなくなる。
真に価値があるものを享受することには何かしらの欠点がつきまとうと思う。
欠点を忌避するがゆえに、はじめから欠点も長所もない大して価値がないものに手を出してしまうのだ。
消費したところで満腹感もなく、同じことを繰り返す無限のサイクルに没入していくのである。
新幹線の話が挿入されたことで、沢木耕太郎の後段の文章は非常に長く感じられて、前段を読んだ時の集中力とワクワク感は戻ってこなかった。
これはCMが悪く作用した例である。
本当に良い物を楽しむこと。
そもそも何が良いものなのか知ること。
このままではそうした審美的感覚が鈍ってしまいそうである。