矢束
さいきん2117の矢を新調したら、以前の矢と比べてやたら長く感じられた。
前の六矢は鏃を切り詰めて一度交換しているから、当然かとも思いきや、
弓具屋で矢束を図ったら、93センチもあった。
以前は腕を伸ばしに伸ばして91センチだったのだから、この三年で2センチも腕が伸びたことになる。
どうりで矢を引き込みそうになっていたのかと、原因が分かりほっとした。
鏃を詰めた方の古い矢は指二本分しか余りがなかった。
まさか自分の腕が伸びるわけがないと思っていたが、こういうこともあるのだ。
ところで、自分の中で伝説的な弓引きのKさんは、指一本分しか矢の余りを出さなかった。
鏃が籐から的側へわずかに顔を覗かせるだけで、非常に切り詰めた石打の羽根に麦粒の矢を使い、ひょうっと離して、途中から加速するような矢飛びをやってのけた。
以前また全く別の人に、
「強い弓は小さく引いて小さく離す」という俚諺めいた話しを聞いたことがあるが、
そうした人たちの中では、短さや小ささが根本にあるというのは、ある程度共通認識のようだ。
二人共(往時は)三十キロ以上を引いていたのである。
こうしたことの裏付けになるかは分からないが、新調しておきながらも、短い矢の方が矢飛びが良い。
我ながら苦笑である。
弓の不思議なところは矢飛びが良いことは、必ずしも大きく引いた結果ではないということだ。
ボウガンなどの機械とセットの弓なら、これは間違いなく正しいが、
機械の代わりに人間が間に入り、芯材となり、力を生み出す存在となると事態はややこしくなる。
見た通りの理屈や常識が通用しないこともあり、もしかしたら「常識」とされるものが真逆である可能性もある。
弓も矢も何百年も変わらず、その間にいる人間ばかりが悩むというのが弓の世の常である。
ところが最近では弓矢の方が人間の勝手に叶うように変化するようになった気がする。
そうすると受け継がれてきた常識も変わってくるようになり、結局何が本当のことなのかわからなくなる。
閑話休題。
新しい2117の矢は35gで、おそらく古いほうの矢は短くかつ削れていることもあり、30数グラムくらいであろう。
このため古い方が矢飛びがいいというのが実は最も有力な理由である。
しかしこの数グラムの目方の違いが、的に中たるときに数十センチの上下のズレにつながるのだから、おそろしいというか面白いというか、道具に教えられるというのはこういうことである。
これはあまり関係のない話だが、早気の人は矢を重たくすると一時的にだが早気が治る。
遠的で会が長くなるのと同じ道理で、しっかり引かないと飛ばない、という意識が植え付けられるからである。
もっとも、重たい矢を飛ばせるくらい習熟すればまた元の早気に戻ってしまうが、
それまでに得るものも多少あるので、あながち悪い方法ではない。
ちなみに会が長くなると言っても、人によっては一秒も長くならない。
結局は力の使い方の問題である。
こうしたことに共通するのは、道具に引き方を合わせるということだ。
昔の弓に並寸が多いのと同じで、小兵が多かったという事情も作用しているであろうが、弓矢という長物は本来は小さく使っていたものと思われる。
さいきんとある弓具屋が販売している和帽子を見る機会があり、実際にはめて使用してみた。
引けるには引けるが、合成皮革で固く控えが大きく、股が狭く、何よりも帽子が扁平で、本来力がかかる場所の補強がおろそかにされている感じがした。
ある人物による監修を受けて制作されたものだそうだが、その教えを受けられる人ならいいが、和帽子を使う私などにとっては未知の道具であった。
道具に合わせるといっても、これでは少し意味合いが違う。
数グラムの違いが的中を決定するように、本当に微妙な違いですべてがガラリと変わってしまうのである。
肩帽子に至ってはその最たるもので、1センチ溝の位置が違い、5度角度が違えば、もう勝手が違う。
自分に合った道具を見つけるのでわなく、要は自分に教えてくれるものを探すのがミソである。