赤穂探訪1

赤穂といえば、忠臣蔵や名産の塩。

そこに加えて、雲火焼き、関電の大工場などを思い付く人がいればなかなかの「赤穂通」だろう。

先日縁があり赤穂に行くことがあった。

昼に播州赤穂駅に到着して、駅構内の観光協会でレンタサイクルを借りて市内をぐるり回ってきた。

借りた自転車は地元の青年会議所が寄贈したもののようで、「青年会議所」と赤字で書かれた小看板が後輪の脇に括りつけられていた。

これがなかなかの年代物で、ペダルを漕ぐたびに木舟を櫂のようなキーコキーコという音を立てるばかり、一向に推進力を得ない。

赤穂市はおそよ、自転車で一時間もあれば一周することができるが、市の東側には瀬戸内海を眺める小高い丘がある。

そこにお目当ての観光スポットがあったのだが、まさかあれほどしんどい思いをするとは想像しなかった。

200円で借りられる自転車は500円だせば電動自転車にランクアップする。

絶対に後者を選ぶべきである。




駅から最初に向かったのは磯六という割烹屋であった。

知り合いから勧められ、カニコロッケ定食がイチオシというから、いざ店の前まで行ってみたものの、

暖簾こそ出ているが、ランチ営業中にはない店先の暗さにどことなく不安になる。

すこし間を作って、ガラガラと開ければ家族連れの先客が四人ほどいた。

件の定食を注文して、薄暗い店内で昼のビールをけだるく飲みながら待つ。

奥に向かってL字型に曲がっているカウンターにはおよそ14、5席ほどあろうか。

カウンターの中では主人と奥さんがいそいそと定食を作っていた。

カニの身を漉いて、じゃがいもとホワイトクリームを混ぜたコロッケのタネに混ぜあわせている。

その後ろの棚には広めの短冊にお品書きが縦書きにされ軒を連ねているが、棚の天板には古伊万里だろうか、華麗でいて時代物の落ち着いた色合いの大皿が並べられている。

当の知り合いはカニが苦手だそうで、定食は注文したことがないそうだ。

それでいてオススメするからには、地元では定評があるという客観的な意見なのである。

出された定食を一息に食べて、ビールの最後の一杯をコップに注ぐ。




そこから自転車で五分ほどの花岳寺を訪れる。

境内には「大石内蔵助名残の松」が残されており、1702年の討ち入りの際し内蔵助が江戸に出立するに際して、故郷に生きて帰れないことを悟りその木肌を撫ぜ名残を惜しんだと伝えられる。

現在の松は二代目だそうだが、樹齢三百年で枯死した初代の幹は豪快にぶつ切りされ境内に飾られている。

もとは大石内蔵助の母堂が亡くなった折に近隣の相生村から移植され、それが松の間の刃傷事件の十年前のことであるから、言わば母に触れるが如く、内蔵助は松に語りかけていたのかもしれない。

赤穂浪士の墓と言われれば東京の泉岳寺にあるわけだが、亡き浪士たちの遺髪をもって討ち入りの後年に花岳寺に墓が建立されている。

大石内蔵助を筆頭とする四十六士の戒名には切腹したことを表す「刃」が頭につく。

ただ一人、「刃」が付かない寺坂吉右衛門は討ち入りの成功を赤穂に知らせるため江戸を離れ、後に出頭するが綱吉の母の懇願より免ぜられたと伝えられてる。

本堂の裏手には地域の檀家の墓が多くあり、灰色に艶がかった比較的新しめの墓と、江戸期以来の古色蒼然とした墓が混在してる。

成形技術が未熟な時代においての墓石は柔らかく風化しやすいものだが、ここでは毀れるところも少なく綺麗にその形を保っている。

空は晴天であった。

赤穂の名産は塩であるが、それは江戸開幕直後に整備された塩田がたらしたものであった。それは一年を通じて穏やかな気候が続く地域的特性を利用したものである。

花岳寺から民俗資料館に足を運ぶ。

塩務局の庁舎として明治の末に建設された洋風建築は、整備改修を経て、今年で106年目を迎える。

江戸以来の塩の生産は、開国後には外国の塩の輸入により一時的に停滞する。

当時においては舶来の塩の方が安かったのである。

そこで明治政府が乗り出したのが、塩の専売であった。(現在では塩は煙草とともにJTのもとで一元的に管理されている。)

館内では、明治以来の塩作りの伝統を伝える用具が館内には保存されている。

ただ、昔の玩具やラジカセやノートパソコンなども展示されているため、地域博物館というよりは時代の風俗を伝える広く浅い展示といったところで、余り見応えはない。

その頃にはすでに午後三時を前にして、赤穂市の東部にある田淵記念館まで一気に自転車で駆け抜ける。

内海を望む赤穂岬にある記念館は、地元の名士、田淵家の収蔵品を展示したものだ。

掛け軸や洋画などの展示品とともに、ここには多くの茶道具が展示されている。

中でも目を引くのが、大嶋黄谷(1821~1904)作の「雲火(うんか)焼き」の風炉である。

焼き物に釉薬を用いず、窯に米ぬかや藁や砂などを配置して高温で熱っすることで、焼き物に独特の風合いが吹き付けられる。

そこには瀬戸内の夕焼けのような、濃く赤い日没に添えるようにススが薄暮れの黒さを加える。

大嶋黄谷が創始したが、継承者がおらず、製法は現在には伝わっていない。

一つには黄谷の常に変化と革新を追い求める職人的態度により、弟子がいなかったためと言われる。

赤穂では多く雲火焼きの展示を見ることができるが、田淵記念館の風炉がもっとも美しい色合いをたたえる。

田淵記念館から岬にそってU字型に山側を登っていくと、桃井ミュージアムがある。

現在赤穂では雲火焼きの再興が行われており、展示を見ることが出来るが、

しかしそこにたどり着くまでが、これがまた大変で、わずか1キロ未満の距離をボロの自転車に乗って走ることおよそ二十分。

坂に次ぐ坂で傾斜は段々ときつくなっていく。午後の太陽は頭上で激しく照る。

途中で車道に桃井ミュージアムの看板が出ていたが、案内の矢印が指すのは更に傾斜がきつい坂の小道である。

さすがに観念して降車して手押し車で頂上に到着する。

見ると、自転車で来ている人は誰一人おらなんだ。

広い駐車場には自動車が数台停まっていた。

汗だくになりながらも館内に入ると、もしかして元は住居だったのではないだろうか。

あながち的はずれでもなく、後日調べると元は桃井製網という会社の福利厚生施設だったようである。

現在も雲火焼きの再興を期して、桃井氏が制作を続けているということだ。

しかし、ここのウリは雲火焼きが購入できるということもそうだが、

なによりも庭先から望む瀬戸内海の景観の美しさである。

内海は波が少なく、ところどころ見える島と往来の船舶が景色にメリハリを付け、海は穏やかで優しい輝きを放っている。

右手に薄く見えるのは『二十四の瞳』で有名なかの小豆島、晴れていればその奥に四国を望む。

水琴窟展が行われていた庭のベンチにどかっと腰を下ろし、水琴窟よりも今しがた心臓が破れるほど自転車を漕いで手にした高台からの景観に魅入られていた。

この半日で大分苦労して自転車を漕ぎまくった小観光もとりあえず一日目は終わりである。

赤穂城跡近くの宿に戻り、風呂に入って夜の酒まで一休み。

友だちのKさんは近場まで車で迎えに来てくれた。

みれば後部座席に妹も乗っており、これからどこまで乗り回すつもりだろうと思ったら、

いったん家に帰って、すぐ近くの山海という炉端焼きの店まで徒歩である。

一日汗をかき、足も重たい。こういうときは近場が一番いい。

ここもまたL字のカウンターだった。

そういえば、炉端焼きというのは今まで食べたことはなかった。

一体どういうものが出てくるのだろうと思っていると、店主のおじさんは魚や野菜をそのまま腕くらいの太さのある炭が並べられたコンロに並べている。

もくもくと煙があがり、店内は中世のコーヒーハウスよろしく大向こうが見えないほど真っ白である。

きっと火災報知機があったら、毎日サイレンの音に事欠かないだろう。

出されたサンマを食べる。この時期は新さんまで、昨今の不漁で高かったに違いない。

赤穂は寂しいところである。

昼間の人通りは少なく、夜は暗く、ところどころ見える飲食店のネオンが静かな夜を演出している。

しかしランチのお店と同じく15席ほどの店内は満席で、活気にあふれている。

余計に野菜も魚も美味しさが増してくる。

ビールも食べ物も、注文放題のコースだったのか、お店の人は一向に勘定をつけていないようだった。

途中友人が厠に立って、妹さんが「何か面白い話をして」というから、その昔、繁華街で遭遇した痴女の話をする。

友人が席に戻っくる。

この話はまたあとでね、という肩透かしをくらわせる。

えーっ!と残念がる妹。また皆んなで飲む。また友人が厠に立つ。

それでさっきの話の続きだけど、と続ける。

ようやく話も終わった頃には皆ベロベロで、一体どれくらい飲み食いしたのだろうと思っていたが、

ご家族へのお土産に、と阿闍梨餅を渡したのに気を利かせてくれたのか、

ざんざん酔った頃には友人の親父さんのツケでお会計が済んでいた。

もう少し大きめのおみやげを買ってくれば良かったと今更ながら後ろめたい気持ちもあり、

店を出るともう11時を過ぎていた。

夜に歩く赤穂は、今まで以上に静かで穏やかだった。

車のない信号の電灯は静かに赤と青を行ったり来たりしている。

「女の子のいるお店にいこうか?」という話になったが、不思議とこの静けさに牙を抜かれてしまったようだ。

結局、三人で宿に戻って飲むことになった。

コンビニでこれでもか、というくらい酒とツマミを買い込んで部屋に行く。

インターネットで予約した和室は14畳もあった。

修学旅行なら6、7人が詰め込まれる部屋に泊まるのも味気ないと思っていたので、

ちょうどいい、大部屋とはこうでなければいけない。

それからはどんちゃん騒ぎで、友人と妹がタクシーで家に帰った頃には三時を過ぎていた。

久しぶりに大酒を飲み、ぐーすか寝ていたら朝の10時前に起きた。

チェックアウト時間が10時だから、完全な寝坊である。

おっとり刀でフロントに鍵を返したら、すでに定刻を20分ほど過ぎていた。

平謝りをして、さあこれからが二日目である。



ホテルからほど近い赤穂市歴史博物館を尋ねる。

順路伝いに歩いて、二階建ての一階は古代史から始まる辺りは手堅い構成だ。

中世史に入り、塩作りの歴史が始まる。順路の最後には岩塩の大柱が展示されている。

一階のホールの真ん中には三分の一のサイズの塩廻船が展示されている。

赤穂のあった播磨の国は十州塩田とよばれた産地の一つで、西は広島、四国は愛媛まで瀬戸内で製造された塩を国内の各藩への運んでいた。

二階はほぼ赤穂浪士の展示だ。浅野内匠頭長矩は、赤穂藩の三代目藩主であったが、

1701年、殿中松の間で吉良義央に斬りかかり即日切腹を申し付けられる。

それから数日、赤穂藩に藩主の刃傷事件の急報がもたらされ、同日、浅野長矩切腹の続報がもたらされた。

城に詰めていた200名からの藩士たちは喧々諤々の論争となり、吉良を討つべし、城を明け渡さず籠城して戦うべきと大いに荒れるが、城の明け渡しを決める。

赤穂藩はその後、森家によって引き継がれることになる。

一体に、赤穂の歴史は波瀾万丈であると思う。

結局、浅野内匠頭はどうすればよかったのだろうと考えながら、

昨日に続き晴天のもと、城跡を歩いて大石神社へと向かう。

京都の山科にも大石神社はあるが、ここは筆頭家老であった大石内蔵助の旧宅を改め、赤穂浪士を合祀した神社である。

京都の方は唯一内蔵助を神として祀っているが、これは討ち入り前にこの地に隠棲したことに由来する。

住んでいた場所が二カ所も神社になった家老もそうはいないだろう。

境内には小さな展示スペースがあり、ここには赤穂のなかでも最も保存状態の良い赤穂浪士伝来の品が展示されている。初代藩主浅野長直の甲冑や刀などである。

そこから一旦駅の観光協会に向かい、一日目の失敗を活かし、こんどは電動自転車を借りた。

スイスイと楽に動く自転車に乗り、今日は赤穂の観光である。

昨日取りこぼした観光名所をめぐる予定だったが、一日目の奮闘により残されたのは海洋科学館のみである。

ここでは塩の手作りコーナーがあり、いざ塩作りに挑戦である。

塩は海水を煮詰めて作るのではなく、海水を天日にさらして水分を蒸発させ塩分濃度を高めた鹹水(かんすい)を作る作業に始まる。

100mlあたり回数は3gほどの塩が含有されているが、これを約18gまで高めるのである。

塩水を呼び入れて水分を蒸散させる場所が塩田と呼ばれる。

そうした行程をスキップして、いきなり鹹水を鍋で煮詰める作業から始まるのだが、

沸騰した鹹水をひたすらヘラで回していくと、最後の水分が蒸発し白いドロドロとした塩ができてくる。

それを更に熱していくと今度はポップコーンのようにぱちぱちと塩がはじけてくる。

火を落として、粒子を細かく潰していくと、粗塩とよばれるニガリがある塩がつくられる。

これが、赤穂の塩である。

出来た塩はお土産に持たせてくれるが、精製塩と異なりわずかにクセがある味で酒のつまみに良いかもしれない。

そこから電動自転車にのって、昨日散々苦しめられた市東部の坂をスイスイと登って、かたきを討った気になっていたら、

海側から雨雲が層をなして訪れ、ぽつりぽつりと雨が降り出してきた。

良い時に観光を終えたものだと思いつつも、雨足が強くならないことに願いをかけ途中温泉に立ち寄る。

海に近いところでは温泉も塩水なのだ。生傷でもあったら痛いのなんの。

カラスの行水で上がり、そのまま駅に戻り、二日間の赤穂観光旅行は終了した。



もう少し時間があれば楽しめたかもしれないが、二泊三日もいられるほど退屈しのぎになることもそうはない。

友だちでもいれば別だが、赤穂のいいところはむしろ何もないことかもしれない。

たまに行くにはいいところだ。