ノート:森田療法

森田療法認知行動療法と混同されている。
しばしば混同されることの多い両者の大きな違いは、

前者が患者のトラウマをなるべく遠くに置こうとする一方で、

後者はトラウマと正面から向き合うことで治療を試みるというところである。

患者が過去の経験を思い出すということは、過去の経験が反復される事を意味する。

その方法では辛い経験が増幅される可能性がため、森田療法ではむしろこれをなるべく遠ざけようとするのである。

「あるがまま」というのが森田療法のキーワードだが、カウンセリングの際に無理に過去の歴史をほじくり返す必要はないのである。むしろカウンセリングという言い方も、森田療法においては正しい言い方ではないかもしれない。

森田療法森田正馬(もりたしょうま、1874~1938)に始まるが、

今日的な視点を廃しても、その診療方法は特異なものであった。

というのは、森田正馬は総合病院で働く勤務医ではなく自宅で診療を行う開業医であったが、そこでは患者が森田家に寝泊まりをし先輩の患者らと寝食を共にしてある種の共同体を形成しつつ療養をおこなうというスタイルが取られていた。

これが森田療法の大きな特徴であるが、この療法は具体的に次の4つのステージに分けられる。

第1期 絶対臥褥(がじょく)期 患者は部屋に寝泊まりをするが、一切何ごとも行わない。
第2期 軽作業期 先輩の患者が敷地内で作業をしている光景などを見学する。
第3期 重作業期 診療所の掃除や風呂焚きなどを行う。役割分担は先輩らと相談して決める。
第4期 社会生活準備期 日常生活に戻るための準備期間にあてる。

第1期の「絶対臥褥」は、食事や排泄などを除いた時間はすべて部屋で過ごし、ベットに横たわるなどして一切の活動をおこなわない期間をさす。全く何もしない日々を数日続けるわけだが、それによって「活動への欲求」が患者の中に芽生えてくるという。

第2期では、先輩の患者らが庭の花壇を整備している様子を窓から眺めたり、風呂焚きや掃除の方法を見学する期間にあてられる。これは、外の世界に目を向ける、という行為を患者に促すためである。

第3期は、いままで見てきた作業に実際に参加し、先輩らと役割分担を決めて一日のおおくの時間の作業時間にあて、第4期の社会復帰へと患者を導いていく。

森田療法における「入院」は、他人と寝食を共にし共同生活をおくるという意味であるが、たとえば相撲部屋のような親方と女将さんがおり先輩と後輩の関係が構成されているというような密な世界を想像すれば分かり良いと思う。

この「入院」を森田療法では「元法」と称することもある。

こうした一連のステージでは、患者が「神経質」になった過去の経験の一切を聞かないという態度がとられる。

森田療法ではこれを「不問」と呼んでいる。

原因を直視しそれを向き合うことを方法とする認知行動療法とはある意味真逆なのである。

前述の「あるがまま」と同様に、過去の出来事を問題とせず、気づけば患者はそれを自然のことと捉えられるようになることが目的なのである。

上記の森田療法の全4段階は40日~90日の期間をかけて行われる。




・現代における森田療法

森田療法は現在ではほとんど実践されていないが、それは次のような理由によるものである。

一つには採算性がないということである。森田療法では投薬を極力行わない方針がとられるが、患者が寝泊まりをして風呂焚きをしたり掃除をしたりという方法では採算があわないのである。

加えて、現在の精神療法は外来治療が中心であり、「神経質」の患者の入院治療は馴染みのないものになっている。

二つ目には、近年の精神療法ではカウンセリングや投薬治療がおおく実践されており、臨床心理士そのものが認知行動療法や投薬以外の治療方法について知る機会が失われていることにある。

森田療法の後進が育っていないのである。現在では森田療法には国際学会があり、世界でおよそ100人の研究者がいる。

とりわけフランスには熱心な研究者がいるとされるが、裏を返せばそれはフランスでも精神療法が上手くいっていないということでもある。

第1期の「活動への欲求」というような面から伺えるように、森田正馬ベルグソンの「生の哲学」や東洋の仏教思想などをモザイク的に巧みに取り入れ森田療法を完成させたが、とりわけ仏教的な側面についての理解もまた必要であることを意味する。

中国では「不問」や「あるがまま」という考えが比較的受け容れられているが、これは仏教や老荘思想の経脈に通じるところがあるためである。

三つ目には、森田療法は国外へと広まる道を見い出しつつあるが、上述のように森田正馬の根本的な理念が理解され難いことも作用している。

「あるがまま」という考えは、事実そのものを受け容れる、「事実唯心(Fact is truth)」という態度であるが、ある海外の研究者は「正義こそ事実(Justice is truth)」という言い方をしたという。

その研究者は人身売買の被害にあった女性の精神ケアに従事しているが、そこには犯罪組織という「悪」と対立する「正義」がケアの念頭にあるのだ。

人身売買は許されることではないが、過去に起こりすでに被害が発生した後になって善悪を考えることには、森田療法の「あるがまま」の立場からすれば多少の違和感があるのである。

「事実唯心」は「事実こそが真実」という意味であるが、これを海外の研究者がただしく消化できるかどうかも仏教的な課題に通じている。

最後に、日本人の療法に対する態度にも森田正馬の時代から変遷がみられるようになった。

投薬やカウンセリングといった外来治療が主体になっていると述べたが、患者の側がより短期的で簡単に治癒する療法を期待するようになったことが挙げられる。

森田療法の元法に則ると40日~90日に渡る長期の療法が必要になるが、その方法を希望する患者がいなくなったのである。

忍従や忍耐といった抽象的な言い方になるが、根気強く何かを行おうという地道なメンタリティーが変化していったことも森田療法に影響を与えているのである。