命名

文章を書くときによく題名を後付にすることがある。

適当に文章を書き流して自由勝手に完成させた上で、「この文章には~と命名しよう」という態度である。

近代社会でもっとも私たちと馴染みがないものの一つが「命名をする」という行為だが、

たとえば自分の子供に名前をつけたり、

インターネット上のハンドルネームを考えるのに苦慮したりするのは私たちが「命名」という行為にまったく慣れていないからである。

おそらく普通は「何か」が誕生した後に命名する行為が連続するからであり、

突然名前をつける必要に見舞われることが多いからだろう。

中国には起名店という名前を付ける専門の職業があるらしいが、

名付け親を他人に委ねることはそう珍しいことではない。

むしろ、はじめから存在しないものに名前を付けている人は稀であろう。

中学校のときの塾の先生に「おれの子どもの名前はすでに決めてある」という人がいたが、

女が産まれたら「波瀾」、男なら「万丈」ということであった。

当時は未婚で子どももいなかったはずだが今はどうしているだろう。

意気込んで自分で名前をつけてみても大抵はそうした目も当てられない事になる。




書誌学者の森銑三さんは『書物』という本のなかで、近頃の書肆は売れる売れないという尺度で容易に著者が決めた書名を改変してしまうことを嘆いている。大系的な内容でもないのに「日本~史」など大層な名前をつける一方で、売れた本にあやかって「~ノート」や「~のこころ」という本が乱発される事態は悩ましいということである。

「~時代の町民の生活」とか地味なタイトルだと購買層に手にとってもらえないから、パンチが効いて新奇なタイトルを、ということだと思う。

少し前だと「~の壁」、さいきんでは「~するちから」といった新書が多く見られるのも同じである。

原型となった本のパチもんのような位置づけではあるが、

なかにはきちんと書かれている本もあるため屋上屋を架すような名付けはむしろ著者の自主性を貶めることになりはすまいか。

私が見たなかで最も珍妙な書名は川上未映子の『わたくし率 イン 歯ー、または世界』であるが、

何年か前にNHKのスタジオパークに出演していた際に「小説の内容をすべて詰め込んだらこうした名前になった」と言っていたように思う。

作者の命名自治権を確保していると言えるが、ここまでぶっ飛んでいると清々しいものである。




逆説的だが、私たちが命名で苦慮するのは自由に名前をつけていいからである。

知り合いに代々男子に同じ一字を附ける家があるが、

こうした規範が受け継がれていることは欧米の命名法が伝統的に聖書に由るところと似ている。

ティーブ、シュテファン、エチエンヌ、エステバンといった名前はキリスト教最初の殉教者である聖ステファノから来ているそうだ。

さいきんでは欧米でもいわゆるDQNネームがあるそうで、嘘か真か「スシ」や「カラオケ」という名前をつける親もいるらしいが、これらが異端なのは伝統的な命名法に逆らっているためであろう。

日本には普遍的な規範がこれといってないため、私たちはなおのこと自由な命名の苦しみに遭遇するのではないだろうか。

皇族が生まれたときに親王の名前にあやかって命名することがあるのは、

正当な下地を提供してくれるからである。

欧米と日本のDQNネームに共通するのは、

およそ名前として認識されない言葉を与えているためか、どこかずれているからであろう。

寿司やカラオケなどは冗談としか思えないが、

たとえばよく言われるように森鴎外の子どもが「於菟(オットー)」とか「不律(フリッツ)」という名前なのと同じである。

確かにそういう名前は存在するが、日本人の名前とするにはどこか腑に落ちない。

確かに「縛り」は存在しているのだ。

それにより「自由に名前をつけてもいい」という疑惑の自由のなかで命名は混乱していく。

世界に一つだけの花であってほしいという願いも込められ、かくしてDQNネームは完成するのである。

逸脱した名前が氾濫すれば「縛り」そのものが再構築されるかもしれないが、

それはもう少し先のことであろうとおもう。