序文
小説家がもっとも表現に窮するのが序文であるという。
いうなれば第一声になにを持ってこようか思案する演説家と同じ悩みをかかえているのである。
まっ、そんなことはどうでもいいが。
今日も弓の話題。
さいきんスラムダンクを読み返した。
完全版だったのでコミックスとは異なる編纂だと思うが、
最終巻の辺りに例の「おやじの全盛期はいつだ?おれは今なんだよ」という台詞を見つけた。
そうした手垢のついた表現にかまけるのも陳腐な話だが、
弓おいて、これはとても共感できる。
よくよく言われる話だが、七分だのなんだの弓を引いていると「体をこわす」とかなんだの言われる。
侍や足軽たちは命がけで刀を振り弓を引いたわけだから、そういうこともあるいはあっただろうよ。
命を奪うわけだから諸刃の刀といわず、骨を折る強弓といわずとも、
全精力を傾注しないと扱えない武具を用いたことに異論はあるまい。
誰それの全盛期がいつかなどという問題は本人すら分からないし、
たかだか七分の弓で大の大人が体をこわすというのも確かに思い過ごしという節もある。
われわれは道楽でやっているのだからいがみ合うというのはおかしな話だ。
というのは先日後輩がもらした言である。
私はこの言葉にどことなくしっくり来なかった。
道楽というのは間違いない。
弓が家財を潰す意外にとくに益するところがないのだから。
(あるいは精神の収穫はあるだろうか)
だが、それは命がけの道楽なのだ。
いくさに勝っても石高が増すわけでも、女が抱けるわけでもあるまいし、
それに何十万という金や週何時間(何十時間)という時間を費やすのも阿呆なことかも知れない。
しかし、そのために引く価値はあるだろう。
強いとされる弓を含めてね。
10キロの弓を引くより、30キロの弓を引いて晴れの場で皆中できたら、今日墓が立ってもまあよし。
戒名には強弓仁着地点見出居士とでも書いてもらおう。
まあ、好きにやらせてくれ。