三人
ひさしぶりに弓の試合に出た。
三人一組の団体戦で、一二射×三人、計三六本の勝負である。
かれこれ一月ほど三人で練習を重ねたが、これが見事に失敗の連続である。
どうやっても一二分の七本が最高なのである。
三人の意識には同様の停滞感が流れていた。
本来成功する団体には、静謐な共同意識ではなく勝ち気なムードが流れるものである。
だれもがそうした成功の方程式のことを知っていながらも、
遂に光明を見ないまま本番へと突入することとなる。
本番一回目。
壱、壱、参の合計五中である。
最初の回を終えて、早くも練習の再来となる停滞した雰囲気が兆していた。
三人のうち誰もが、冷や汗をかくのでも焦燥に駆られるのでもなく、
ぼんやりと虚空を眺める寂寥に支配されていた。
誰もがコミュニケーションにおける積極性を欠き、
皆の間でこれといった会話が交わされないことも寂寥の蝕みを促進させていた。
なにかちょっとした驚きが起こったとすれば、それは本番二回目のことである。
参、二、参の合計八中を出したのである。
練習で最も成功した立ちでも七中であったため、三人はにわかに色めきだっていた。
射場から退いた後、三人の顔には希望の色が見えていた。
最低でもこれだけの結果を出したかったのである。
それが本番で出来たのだから私たちは捨てたものではない。
たしかに小さい成功を希望や置換するのは、自らの可能性を誇大視することに他ならない。
なんとなれば、七が八になったところで、大した差はないからである。
しかし、われわれを支配していた停滞感を払拭するだけの積極性を与えてくれたのもまた事実である。
三回目の本番へと望みをつなぐことで、三人の気持ちは一致していた。
最もよく的にあたる三人の人間がエース級の団体となるのが常道であった。
われわれも多分に洩れず、良く的中する側の人間ではあったが、
それが常に最善の三人である保証はどこにもなかった。
なんとなれば、今日の的中が明日には三分の二、
あるいは半分に落ちることもある意外性が弓の道には密かに横たわっているからである。
これが高校や大学など、専用の施設で長時間にわたり研鑽を重ね、
豊富なコミュニケーションと練習によって培われるものであれば、おそらくそれは最善であるだろう。
しかし週に二回、公共の道場で、顔を合わせるのも弓を引くのもまばらな社会人の環境では、
調子の上がり下がりはよりギャンブル性を増してくるようになる。
我々はこのギャンブルに常に負けていたのである。
ともあれ、三度目の本番の結果は次のようなものであった。
壱、壱、弐、の計四中であった。
三回の合計は一七中、優勝はおろかとても入賞にも及ばないものであった。
私個人は最後の回、○○××という結果であった。
最初の二本を的中させたとき、脳裏には個人入賞のことがよぎっていた。
一二本のうち一〇本を的中させれば入賞もする、地域の新聞にも載る、それなりに名誉なことである。
弓道では失敗を顔面に出すことも、欲を内面に出すことも厳に戒められている。
それは伝統のおざなりな決まり事ではなく、事実、
今まさに弓を引いている射手にとって致命的な失敗たりえる要素だからである。
その禁忌をまさに犯してしまったのである。
あるいは、全体の結果はあくまでも個人個人の結果の集合であり、
チームワークが結実したものではないという意見もあるだろう。
しかし、最後の一手を連続で失中したあのとき、そこになんら因果関係がないとしても、
心から「われわれ」のことがすっかり忘れ去られていたことは事実であった。
外れた二本は弱々しい軌道を描き、的の下側に外れた。
夜になってチームの一人と酒を飲み交わしながら、今日の反省をしている最中に、
「優勝したチームは常に攻めていた」という言葉を聞いたとき思わずはっとしたのである。
それはつまり守りに入っていたということではなかっただろうか。
全ての行程を終えて、三人の間では最初の頃とは別の空疎さが共有されていた。
今までの寂寥に、疲労感と無念さが加わり、
だからといって常と比べて全く悪いわけでもなかったという気持ちも加わった。
しかも後者があながち嘘でも誠でもないということが、
敗戦後のわれわれの胸中の複雑さを亢進させていた。
くわえて、エースチームを自称していた我々のとなりで、
そうではない同じ会のチームも一七中を出していた。
彼らは団体練習もしていなかったし、まさに個人の結果が集合した結果としての一七中だった。
それが質的に同じものであると我々は考えたくなかったが、
もはや一本の差もない結果をつきつけられ、いいわけのきっかけは完全に失われていた。
試合に負け、団体ならざる団体に負け、私個人は共同体の意識の忘却し、
三人の、くやしい、という言葉だけが同じ軒を連ねていた。
それが内面においても、反省と捲土重来に満ちた共通の気持ちであるならば、
我々にはまだいつの日か栄誉を手にする余地があるだろう。
三人は、まだこの三人で戦うべきなのだと思う。