言語操舵のプレッシャー

さいきんたばこが品薄らしい。

バイトもデートも勉強ない平和な午後、暢気にぷかぷか一服後、

マイセンがきれたので買い出しにいったらあちらこちらに品切れのプレート、

きっと新聞報道の煽りもうけてのことかと思うが、

1mgの白箱だけ売れ残っているのはどうにも判じ得ない。

「10mgを1本吸ったら1mg10本分の節約と同じになる」

と嘘かまことか、バイト仲間の言葉を思い出した。




しかしたばこが体を弱らせるというのはどうやら本当のことらしい。

弓を引いていると5本目くらいで肺が苦しく、あまり空気をとりこめない感じがある。

うわずった射ばかりが目立った今日の午後、

たばこの品薄よりも、矢がまっすぐ飛んでいかないことに危機感をおぼえる。

日曜の試合にむけて矢数をかけておこうとおもったら、

気づけば座射ばかり40弱は引いていた。

毎週の茶道の稽古も手伝ってか体配ばかりに気をとられるのも、

がむしゃらに弓を引き倒す自分の性に合わないようでいて案外おもしろい。

お茶のお点前で膝の裏に汗をかくような真剣さで弓の体配をこなすことも平生あまりなく、

かといってそこここを別に割り切るのも芸道の乙な致し方でもないように思え、

お抹茶を点てるように弓袴で道場をすり足する。

立った坐ったの繰り返しが非常に単調におもえるのは、弓も茶も同様である。

未だにお点前の順序を正しく覚えられない。

弓の体配を正しくこなしているか自信がない。

(といっても後者に正しい体配があるのか疑義は残るが)

その単調さを意外に楽しめたのは不思議なことである。

(そういえば、弓と茶を両方能くする人に出会ったことがない。

それこそ乙な取り合わせだと思うのだが)




閑話休題

たばこは胃腸に負担をかけるものなのだろうか。

先日お茶のお稽古の帰り道、

茶会の皆様とバス停で舫っていると白いケーンをついた男性が真横にいた。

聞けば帰りの路線が同じで、

ご一緒しましょうというと、やおら「顔をさらわせてくれませんか」という。

どうぞ、と言うが早いか丹念に顔をなでまわされた。

今思えば苦笑いであったか、いい笑顔をしていると褒められたあとに、

「ひょっとして胃腸が悪いのではありませんか」と一言。

病は、十二指腸に二度、胃に一度、潰瘍を患っている。

鍼灸師だということだったが、男性の手のひらの感覚で分かるほどに肌が荒れていたらしい。

胃腸はことさらストレスの蓄積しやすい場所である。

向こうは目が見えないというのにこちらは腹の底まで見透かされ、

そしてバスに乗ってから気づいたことだが男性は非常につやつやした肌をしている。

饒舌な語り口のなかで、男性は次のようなことを言っていた。

とかく学生には胃腸が弱ったり、食欲が減退したり、肌が荒れるということが多く、

なかでもそれは自分の考えを言語化することが上手にいかないことで出る症状なのだそうだ。

自分を上手く表現できないことのストレスが表象する。

言語化の失敗はストレスの身体化なのだと。

なかなか論理的な話である。

遅々として文字を繰り出す作業が進まず、

深夜のパソコンの前で絶望するようなことはしばしばある。

本当は一瀉千里の勢いで自分の考えを紙の上に降誕させて、

得意げな表情で一服するのであれば肌も荒れないのだろう。

それが早くもなく上手くもなく、そもそも自分の考えが伝らない作文ばかりであれば、

マイセンが地上から根こそぎ品切れになっても肌は荒れつづけるだろう。

確かに男性の言うとおりなのである。




言われてみれば、ここさいきん自分がひどい吃音に悩まされている気がする。

声が上手く出てこない以前に、相手になんと応じて良いのか考えが浮かばない。

相手と正対する場面で台詞をど忘れする役者になった気分で、

頭が働いていないというより、白紙のワード文書の前で絶望する空白感に近い。

古代の彫刻家が、石の前に端座すること一日、穿つこと一日、

三日目にライオンの彫刻ができあがっていたという。

無邪気な子供が喜ぶのを尻目に、もとからライオンは石の中に眠っていたのだ、

と答えた彫刻家がいたとかいなかったとか。

作家や芸術家は表現する前に空白の下地にできあがった姿が見える。

それは人間の知性や想像力が物質化する以前に、

言葉にならないレベルで概念として存在していることを意味している。

文字化なのか文字渦なのか、言葉にすることばかりを考えていると、

段々それ以前に存在しているはずものが見えなくなってしまう。