中島敦の『名人伝』

中島敦は昭和初期の文学者、

高校の国定教科書では『山月記』が定番となっている。

さいきんの当ブログの話題はほぼ弓オンリーなので、今日は『名人伝』について。

(中島は漢書に学んだこともあり、作品の原典を古典に見いだすことがおおい。

山月記は人虎伝という一〇世紀前後に初出の古典に依っている。

ちなみに詩を吟ずる虎の李徴を痛烈に批評する部分は中島のオリジナルである。)

名人伝列子ー紀元前四世紀ごろの古典ーの湯問篇にモチーフをもとめた一〇頁ほどの小編である。




物語りは次のように始まる。

邯鄲(かんたん)の国の紀昌(きしょう)は弓の指導をもとめ、

百歩はなれて葉っぱを射れば一〇〇発一〇〇中という飛衛(ひえい)に弟子入りする。

飛衛はまず「瞬きせざることを学べ」と目の鍛錬を命じる。

紀昌は妻の機織りの下にもぐり行き来する織り板をみつめること二年、

目は火の粉が入っても、錐で突かれてもまばたきをしないようになった。

そのことを報告にきた紀昌に、

「瞬かざるのみではまだ射を授けるに足りぬ。次には、見ることを学べ」

と飛衛は言い放つ。

紀昌は、しらみを髪の毛に結びつけて窓際におき延々と見つめる修行をはじめる。

しらみは最初小さなままであったが、それが気のせいか一〇日ばかりすると少し大きく見える。

三月すぎれば明らかに蚕(かいこ)ほどの大きさになって見える。

三年後には、シラミは馬のような大きさに、人は塔のように、馬は山のように見えていた。

「でかしたぞ」

飛衛ははじめて紀昌を褒め、ここから弓の蘊奥をすべて伝授する。




その後、師に並ぶ弓マスターになった紀昌は、

やつを弊せば俺は天下一になるのではないか、とあるとき飛衛を殺そうと思いつく。

中盤の名シーンである。

あるとき紀昌が平野を歩いていると、たまたま向こうから飛衛がやってきた。

これ好機とばかりに矢をつがえる紀昌を遠くに認めた飛衛は、自分も弓をとって応戦する。

互いから放たれた矢はちょうど両者の中空でかち合って、地面にぽとりと落ちる。

技量が均衡した両者がいくら矢を放っても同じように相殺しあい、何本射ても勝負がつかない。

しかし最後に紀昌だけは矢を一本残していた。

紀昌はこれをひょっと放つが、飛衛はとっさに地面の枝を取り、はたと矢を打ち落としてしまった。

引き分けに終わり、師の暗殺に失敗した紀昌はとたんに慚愧の念におそわれる。

やらなきゃよかった。

飛衛は飛衛で、弟子を御した自分に安堵する。

(よかった。。。)

両者の胸は別々の感情に溢れ、二人は相歩み寄り泣きながら平原に抱擁する。

面白おかしく聞こえるかもしれないが、

美食家の皇帝に料理人が自らの幼子の蒸焼きを差し出したり、

父が死んだ晩にその愛人を三度レイプしたという始皇帝の時代のことである。

今日の道義感をもって見るのは当たらない。




しかし、紀昌はその後飛衛のもとをはなれる。

師としてもまたいつ暗殺未遂に遭うか分かったものではない。

大陸の深部に住むという甘蠅(かんよう)老師のもとへ紀昌を向かわせる。

いわく、「老師の技に比べれば、我々の射ごときは児戯に類いする。」

紀昌は山に分け入り、足を擦りむき、今にも崩れそうな吊り橋を渡り、

ひと月の後、甘蠅が住むという山の頂に到着する。

みると、老師は腰が曲がり長く伸びたヒゲは地面こすり、よぼよぼと歩いているではないか。

どーみてもホームレスのおじいさんに紀昌はいそいで来意を告げて、弓の腕を披露する。

老人は莞爾として「ひととおりできるようじゃな」と言う。

軽くあしらわれた紀昌はむすっとしつつも老師につれられ、

こんどは岸壁にのっかる今にも落ちそうな岩へと導かれる。

「どうじゃ。この石の上で先刻の業(わざ)を今一度みせてくれぬか。」

紀昌の足はぶるぶる震え、汗が噴き出す。とても弓どころではない。

じじいは又もにこりとし、紀昌と入れ替わりに石に乗っかる。

「では射というものをお目にかけようかな」

どっこらしょ。

紀昌:うん??

   しかし、弓はどうなさる?弓は?

老人は素手だったのである。

ちょうど彼らの天空には鳶が舞っていた。

老人は見えない弓に矢を番え、ひょうと放てば、とんびは空から石のように墜落した。

「紀昌は慄然とした。今にしてはじめて芸道の深淵をのぞき得た心地であった。」




その後九年、紀昌は山にこもり老師のもと修行をつんだそうな。

その間の詳細はさだかではない。

下山した頃の紀昌の顔つきはまるで木偶(でく)のように無表情で、あほみたいになっていた。

都の人々はいつ紀昌が弓のわざを見せるものかと心待ちにしていたが、

いつになっても紀昌は弓をとらず茫然自失としている。

年は流れ、それから四〇年ほどののち紀昌は死んでしまった。




名人伝』は次のようなエピソードで締めくくられている。

老いた紀昌がある日友達の家を訪問したとき、

部屋に置いてあったある物を見て、それはなんという名で何に使う物かね?

としきりに訊ねたという。

まさか、からかっているのだろうと主人ははじめ愛想笑いをしていたが、

何度も訊ねられ、だんだん顔が青ざめてくる。

まさか気が狂ったのか、ほうけてしまったのか、冗談ではないのか?

紀昌がまともであると確かめると主人はこう叫んだ、

「ああ、夫子(ふうし)が、古今無双の射の名人たる夫子が、

弓を忘れ果てられたとや?ああ、弓という名も、その使い途も!」






というのが名人伝のあらすじである。

紀昌は弓の業をきわめ(射)、弓をもたざる射を知り(不射)、

最後に弓そのものを忘却してしまう=(名人)。

普通に名人といえば、射、をきわめた人を想像するだろう。

強弓を引き、放たれた矢には矢が継ぎ中る、一〇〇発一〇〇中の名手。

だが、山奥のよぼよぼじいさんは弓すら必要としない、不射、という神がかった境地に到達していた。

しかも山から降りてきた紀昌は、じじいが有意思でおこなっていた不射を忘れ、弓すら忘れ、

呆然として、それでいて平気な顔をしている。

飛衛も甘蠅老師もたどりつかなかった域に紀昌は、行ってしまったのである。

名人伝』の名人とは、甘蠅でも飛衛でもなく老後の紀昌のことである。




ネットで調べてみたら、

名人伝』と鴎外の『寒山拾得』との関連を指摘するスレッドがあった。


これなんか面白いと思う。

こいつはすごい、と伝え聞く人が実際会ってみると凄い人には見えないことが、

中島敦と鴎外の間ではライトモチーフになっている。

寒山拾得』は、中国の官吏が行脚の坊主に頭痛を直してもらい、

もっとすごい法力を持つという寺の子を訪ねるが、

しかし実際に会ってみると、単なるいたずらっ子にか見えなかったという話である。

個人的には、鴎外の『百物語』に登場する飾磨屋も「凄く見えない凄い人」に属すると思う。

『百物語』は怪談話かとおもいきや、

咄の打たれる会場に集った人たちを主人公(鴎外自身)が整然とした視点で眺める小説である。

主催者の飾磨屋という花柳界のスーパースターがどれほどの人物かと一見してみると、

傍らで静寂としていて、予想に反し陰気でひ弱な男だった。

主人公はなんとなく傍観者としての自分との共通性を見いだすという物語である。




話は名人伝にもどる。

中国の弓というと兎角、弩(いしゆみ、おおゆみ)つまりボウガンを想像するかもしれない。

冒頭でもふれたが、名人伝の原典『列子』は紀元前の成立である。

トリガーが備わり、弓を引き絞った形を機械的に固定する弩が登場したのは唐王朝であり、

機械的利器としての弩ではなく、木に弦を張った弓が登場するあたりが、

弓引きの読者にとって、『名人伝』のどこかほっとするところである。

弓といっても、竹と木を職人的技巧で張り合わせた代物ではなく、

木の枝に蔦(つた)を弦として張ったような木弓のことだ。

イギリスのロングボウのようなものだろう。




日本では木弓の材料を五木といい、

それぞれ梓(あずさ)、櫨(はじ:はぜ)、槻(つき)、桑(くわ)、檀(まゆみ)をさす。

ここに桃や桜の木を加えるべきという意見もあるが、

櫨とともに今でも竹と木の合成弓の材料となっていることが理由だろう。

五木の具体的な木の属名に関しては曖昧な部分が多い。

梓弓ひけどひかねど昔より…、という「引く」「射る」にかかる枕詞の梓は五木の筆頭ながら、

明確な学名ではないため、どのような木を指しているのか不明である。

桑も同様で、文献に依っては、柘(つげ)と書いて「やまぐわ」と読むなど一定しない。

木弓に適した木を種別する明確な基準はなかったのかもしれない。




名人伝』には烏号(うごう)の弓が登場するが、

旺文社文庫版の注には「黄帝が上天する時に落としたという弓」とある。


黄帝が龍に騎って去った時、小臣百姓は従うことが出来ず、黄帝の落とした弓を抱いて号泣した」

とある。「烏(ああ)」は嘆息や感嘆の意。

弓道講話第四巻によると、

カラスのとまった枝が自重で曲がり地面についてしまい、

カラスはおどろいて飛び上がるが、枝はまた元通りに復元したことによる命名とある。

大漢和辞典は、カラスが「桑柘」(読み不明)の枝に挟まれて鳴き叫んだことから、

というオルターナティブを挙げている。

語源説に鳴くカラス、とはもっともらしく聞こえるが、

それにしても素材の木が何だったのかは詳らかでない。




また、作中には楊幹麻筋(ようかんまきん)の弓も登場するが、

これは「柳の幹を麻糸で巻いた強い弓(旺文社文庫の注)」ではなく、

「楊(ポプラ系統のやなぎ)の木で作った弓に麻の糸を弦としたもの(岩波文庫の注)」、

が正しいだろう。

千段巻きのように下糸を巻いた漆塗りの弓であった、と想像力を働かせることも可能かもしれないが、

麻といっても古代では細糸ではなく荒縄のようなものだったろうから、

直弓・木弓に麻糸を巻くということは果たしてあったのだろうか。

不射の射のくだりに出てくる烏漆(うしつ)の弓は、カラスのように黒い塗り弓のことであり、

こちらは漆を塗ったもの。

一般に弓に漆を塗ることは、湿期や雨天での使用時にも耐えうる全天候型の弓を拵える意図がある。

反面、厚ぼったい漆が弓を覆うことで弓の冴えが減じるのは、

塗り弓の使用者が諒解するところだろう。

このことは木弓でも同じだったろうと思う。

日本の竹弓の話であるが、現代においては塗り弓は、

枯れた弓であること、裏ぞりが落ち着いたものであること、小村取りをしたものであること、

などの複数の記号をまとっている。

しかし往事は全天候に耐える軍弓を大量生産する必要があったわけで、

あるいは新木の弓にそのまま漆を塗ることもあったかもしれない。




名人伝』の弓に関する話題はおおよそ以上のもの。

矢も数種類登場するがそれは後日気が向いたら。

一応今日の話をまとめると、

名人とは名人に見えざる人のこと。

当時の弓はロングボウのような木弓であった。

弓の素材については何の木か分からないことが多い。

このことは日本の五木も同様であり、明確な定義などはなかったのだろう。

漆も使用されたが用途や考え方は現代とは異なっただろうこと。

蛇足ながら、

中国では弓力は分厚さではなく張力で測定した。

たしか「丁(吊?)」が単位だったと思う。