たとえ
弓の古典を読んでいると、雨露離(うろり)とか鸚鵡(おうむ)のはなれとか、
比喩的な表現がならぶ。
吉見順正の射法訓(18世紀後期)はどこの道場にも飾ってあるかもしれない。
秘伝書なのか詩なのか非常に微妙な代物である。
唯一技術的な指摘は、
「弓手三分の二弦を推し、云々…」というところ。
続くくだりでは、
「宜(よろ)しく左右に分かるる如くこれ(筆者注:弦)を離つべし。
書に曰く(筆者注:出典不明)鉄石相克して火のいずる事急なり。
即ち金体白色、西半月の位なり。」
という、熱血臭い文章である。
これは上手な射手の心境を比喩的に述べたものであろう。
「金体白色、西半月…」とは金星の輝き、月の黎明であるというが、
射の技巧的な説明でない事は明白である。
弓書の比喩に満ちた文章のうちでよく感じるのは、
弓の本質が喩えによって言語化されているため、
射手は自らの感性でもって本質を確認するしかないという事だ。
自らの射が伝書にいうレベルに到達しているのだろうか?
あるいは故実に則った射なのだろうか?
といった問いを確認するには、
伝書から薫陶を享けるのではなくて、
単に伝書の喩えに共感できるかがどうかが重要だと思う。
「嗚呼、たしかにそんな実感有るなー。こういう表現もありだな」
という感想がもれるか否か。
喩えには指示対象が存在するが、
比喩的な伝書の場合なにを指しているのかが不明瞭なのだ。
つまりは、「本質は自分でみつけなさい」
って言われていると思う訳だ。