弓鹿

さいきんMac bookを使用している。

ことえりという変換機能がおばかちゃんすぎて使い勝手が悪い。

(これはWindowsATOKにあたる)

語彙の絶対数が少ないのと、

連語関係のつながりを見抜く力がかけているのが原因だと思う。

「きゅうどうにいそしむ」と入力して、最初に「求道に勤しむ」と出るため、

さしづめ自分が全国を回遊する優しい伝導師になった気分である。




さいきんは猛烈に弓道の稽古をしている。先週は570射引いた。

現代の弓引きでは、よほどの暇人か弓の家元か大学生の弓道部員でない限り、

一週間で500射以上するのは不可能である。

筆者はその中間のどことなく社会からあぶれたような立ち位置にいて稽古をしている。




ちなみに筆者は高校の時分弓道部に所属して、弓をはじめた。

三年生六月のインターハイで後一本的中すれば予選通過というときに、矢を抜いたため、

涙をのんで引退しその後は受験勉強にシフトしたのは哀しい思い出である。

最後の矢は的枠11時のギリギリのところを通過し、あたってくれなかった。

あのときの矢の軌道はいまでも思い出せるのだから不思議。

それほど悔しかったのだろう。




そして今狂ったように弓を引いている。

ほんわか道場でひとりだけ猛烈に練習しているため、おれってういてる?、

と思うほどに練習している。

でもそれがなんとなく自分らしい感じがして、いい。

何かをやるときに死ぬほどやるのが成功か諦めの近道。

どちらに転ぶかは、いい師に恵まれるか、本気の練習をしてるか、

体力は後先考えずすべて使い切っているか、に左右される。

あれだけやってだめだったんだから、もう辞めよう。

そうおもって高校生のときに置いたはずの弓を再び狂ったように引いている。




やっぱり悔しかったんだね、自分。




今は不思議と高校時代の粗(あら)がとれて、なんとなくいい引き方をしている感触がある。

まだまだつっこみどころ満載ではあるけど、

いい感触がある中、明日も弓を引いちゃおうと思ってしまう。

はやく道場に行きたい、的に向かって矢を飛ばしたい、もう勉強したくない。

まるで少年のように弾けた明日への渇望が胸につまっている。

さいきん勉強と将来が開けるまでに必要な時間の長さにげんなりしていた私にとって、

こうして心弾む喜びがあることが何よりもびっくりである。

日々弓の感覚が冴えていくのがわかる。今日つかんだコツを明日もまた活かせる自信がある。

自分が熱中できるものがあるって、恥ずかしくて言うのもはばかられることだけど、

すてきだね。




自分が今まで打ち込んできたものに、女があると思う。

(憚らず言ってしまおう)

しかし、対人関係の中で熱中することは相手の事情に左右され、

もしかしたら心底から熱中できない可能性もある。

(「もう私アンタとわかれるから」

と三週間ばかり前にいわれたばかりである。)

人間関係のなかで萌えそめる情熱は、突然の事情に左右され、いままでもっていたベクトルを消失するのだ。

そういう唐突な情熱の生殺しは勘弁だと思うから、いまは自己内面的な弓に情熱が作用しているのかもしれない。




ちょっと前までの自分は正直こころが不安定だったとおもう。

よーしクラブに行ってナンパしよう、

もしかしたら女の子を口説くのにつかえるかもしれないからビリヤードを極めよう、

後輩の女の子の前で英語をぺらぺら喋ってアピールしてみよう、

など不純な異性間行為を目的にした行為行動にあふれていたとおもう。

(やってもやらなくても結局はどっちでもいいことなんだけど)

そうして、失敗したり不首尾におわったときに後悔するのだ、

どうして自分はこんな時間の使い方をしているのだ、と。

負の螺旋の中で少しは学習して心はおのずから上昇してきたのかもしれない。

いまわたしは太陽の下に勇躍している。