保守的

自分ではわりかしイレギュラーな人間だと思っているが、

知り合いの外国人にはよく「君は保守的だね」とか「受けた教育が君をそうさせるのか」云々といわれる。

後者の指摘に関しては、周囲に可もなく不可もない水平的な人間関係を築こうとする行為、をいわれたもの。これをcollectivismという。個人主義(individualism)の対義語であるが、訳語は安定しない。

「協調主義」、「集団主義」、今風に言うと「共生」など。

「集産主義」とすると、ムラ社会のみを貫く概念という感じがして、誤訳。




それはさておき、ちょっと前者の指摘に関してちょっと考えてみたい。

どうやら、「あーあ、普通に結婚したいなあ」とか「部屋はきちんと片付けないとだめだぞ」とか「セックスレスっておそろしいや」とかいう私の口吻が保守的である認識されるらしい。

ふん。

結婚観が相対化する日本、(離婚率は婚姻率をあと20年以内に追い越すだろう)

ごみごみとした都会、(今すんでいる京都は都会でもないのに名古屋や横浜より公園面積が少ない)

セックスが選択肢と化す現代、(体外受精やコミュニケーションや快楽の多様化は性交を堕落させる)

は確かに社会問題だろうさ、(社会問題と前面で対峙してセクハラで辞任する社会学者もいるのだけれど)。



ところで、現状を肯定することと、価値概念を意識すること、は異なる。

相対化したセックスを何も否定しようとは思わないし、

(手・口でする/してもらう)ほうがセックスより気持ちがいいという類の話である)

小生は都市の研究をしている院生であるし、

(都会がないとネタがない。まさに都会さまさま)

結婚と恋愛の相手は違うと思うし、

(この点は、婚姻と恋愛が二重写しにならない、というコミットメントに依拠する)

われながら現代のゆがんだ実像の甘い部分を頂戴している気もする。甘露じゃ。




それでも、自分の心奥で、清楚な価値観を信奉しているという自分がいるから保守的なんだと思う。

それに、英語的発話の中ではいいたいことを言ってしまえるので、外国人にとっては保守的に映るんだろう。

しかし外国人の目に映じる僕の姿は、理想を表面に漂白させている哀れな現代人にすぎない。

会話の内容と実際の行動が、二重写しにならないのである。

こんど外国人に会ったらそういうことを言ってみようと思う。




ここからは個人的な愚痴の話である。

このブログの読者諸君は「チューター」というものをご存知だろうか。

これは、留学生を世話する日本人(学生)のことである。

外国から日本の大学に留学してくる外国人はてんで日本語ができず(そしてそのまま帰国するため)、

彼らが日本で生きていくためには日本語と英語ができる友達が必要なのである。

留学経験者であり、さいきん英語力の衰えを顕著に感じる私は自らチューターになることを決めた。

現在は陽気なメキシコ人を担当している。




それはいいのだが、愚痴というのは、他のチューターに英語ができる人材がおらず、

次々に院生チューターたちはドロップアウトしていく。

いや、そのいいかたは適切ではないかもしれない。

彼らは、いつの間にか舞台からいなくなる端役のように、気がついたらチューターでなくなっている。

辞めるとも、続けるとも言わずに、だんだんと留学生と疎遠なり、最後にチューターの看板は自然消滅している。

この点、高学歴院生の身の処し方は非常にしたたかでよこしまであると思う。

英文学専攻でも社会学専攻でもこの種の人材を乱発するのだからたまったものではない。




そしていまだに底辺でねばっている私のところに負荷がかかるのである。

周囲がばたばた死んでいく中で自分ひとり奮戦しているのだから、これを自賛しても差し障りあるまい。

チュータひとりに学生ひとり、が原則なのに、私のところに二人も三人も転がり込むのが現状であり、

いそがしすぎて、そりゃセックスレスにでもなるわいな。

途中で責任を放棄しても頭がいい振りをし続ける、二流大学の院生たちがにくたらしい限りである。

百歩譲れば、彼らがスマートであるといえる。

しかしながらそれは、やくざに恫喝されたら失禁してしまうほどのチキンっぷりであることには変わりない。




もう二十台の半ばなんだし、社会的責任はしっかり果たそうぜ、と当人たちにはいえないが、

その心に溜め込んだ不満が外国人の前で表面化しているのかもしれないし、

そもそもそんなことを考える自分はやはり保守的なのかもしれない。