科学

タバコを吸えば三秒寿命が縮まる、

という話をかつてほんとうのことのように思っていた。

もしも三秒という精密極まりない寿命計算をすることができるなら、

それは人間の一生涯の生存期間は秒単位で把握できるというのと同義である。

しかしながら、例えば余命三年と宣告をされた後に五年生き、

余命五年の宣告にして八年後の現在にも生きる人のいることが実際なら、

こういった言説はまやかしに過ぎない。

斯様な「科学的」(この場合は「医科学的」とでもいうべきだろうか)の脅し文句は、

「科学」という、敬遠され、人の尊崇の対象となるような、分厚い衒学的な壁を擁する
存在にとりて始終ついて回る問題である。

もとい、一本の莨で人間の天命のうちの三秒間が減ぜられるという意見は、

なんと印象的で理解に易きものだろうか。

容易に論駁できる代物であるにも関わらず、

簡易であることに立脚し、「科学」という称号を冠せられ、

あたかもその先に真理なるものが存在するかのように容れられているのである。




ある人はこういうかもしれない、

タバコが体に悪いことの比喩として、その言葉が存在する、と。

タバコが体に悪いかどうかはここでの問題ではない。

その意見表明をする手段として「科学」という看板を借りることが問題なのである。

本当ではないことを本当らしく述べるためには、限りなく嘘をなくせばよく、

「三秒の嘘」をつくために、真理を探究をこととする科学に間借りすればよいではないか。

科学には明確化、精密化といったイメージがつき纏い、それは本当である。

統計学における「日本人男性の平均寿命は77.8歳」とか精密工学における「1㌨㍍のカーボンチューブを作製」などというのは、なるほど科学的な響きをもつ。

たしかにそれは本当らしく聞こえ、実際に本当に起きていることである。

あるいは、

アメリカの最新の人工衛星は机の上に置かれたタバコの銘柄を判別できる」

アメリカの原子力潜水艦のハープーンミサイルは目標地点の15センチ角内に着弾する性能を有する」

というのも今日の現実にはありそうなことである。

そこに何気なくも「一本の煙草を吸うと人間の寿命は3秒間が短くなる」という言説が紛れていたら、

はたしてそれだけを虚実と断じることができるだろうか。


(蛇足ながら、三秒云々の喩えは「隠喩」ではなく「直喩」というべきだろう。直喩とはあらゆる比喩法のうちで最も非関連的なものである)





一気圧においては水は一〇〇度にて沸騰する、というのは一つの真実であるし、

どうやらこれに反論する隙間がないように思う。

しかし、そういった簡潔で論駁不可能な真理は、科学の基礎ではあれど、

科学そのものとはいえないように思う。

換言すれば、

万人が難渋せず理解できるような仕方で、

科学を説明するのは不可能なのではないかということである。

科学は正確かつ精密でこそあれ、簡潔とは限らず、

そもそも簡潔であることを主旨としていないのである。

それは暗闇の中にあるもの、杳として知れないもの、形而上にあるものを知り、

あるいはそれを暴露しようとする試みから出発したはずであり、

何かを一言に要約するためにはあるのではない。