小生の京都に於住まいは四帖半の小部屋になりおり候。

家主によれば京間の四帖半は江戸間の五帖に相当する由。

大量の書籍を置けば床が抜けてしまうとも釘を刺されてしまふ。

しかしいまは身一つで学問の道を究めることあたわず。

書を重ね、ひねもす景色よもすがら、おもての桜は緑となりぬ。



古来学者たるものは洋の東西を問はず、身一つで学問を体現できたといふ。

学者の一挙一動をしてすでに学問であり、古典の知識はその記憶の中に留め置かれていた。

偉大な先人は筆や反古紙の一片も必要としなかったのである。



We are all scientists here.(ここにいる者は全て学者である。)

かつて、ストックホルム大學での講義場において発せられた或る教授の号令は、

腰掛にて聴講するわれわれ学徒には勇壮なる一言として響いた。

しかしわれわれとあの演壇で縦横自在にうってまわる教授との間には肉体的な距離以上の隔たりがあったことは言ふまでもない。

口誦や身振り手振りの機微に学問の髄がにじみ出るのであり、

それは知的ならざる学徒には容易に得がたきことなのである。

あのようにありたい、今生たっての願ひはつまるところ斯様に要約される。