古本とその魅力

もしも古本屋がほんとうにもうかるなら、

神保町界隈の黴臭い店はおしなべて鉄筋コンクリート※1の複数階建ての建築物で埋め尽くされているだろ。

古本屋はよく行けど、斯様な古本屋で生計をたてようとは一寸も思わない。

たしかに、小生の本棚のことごとくを埋め尽くすのは古典籍・古書・古本ものばかりである※2。

しかし常に汚い古本を買いつつも、

いつかは本を新品で買えるような身分になることを夢見ている。

以前、近所の有隣堂である新刊本を手に取ったときのことだ。

印刷所で製本されてから一週間と経っていなかったものかもしれない、

ぱらぱらと何気なくその頁をめくったときに、

頁間から放たれた真新しいインクの香りが小生の鼻腔を衝いた。

その匂いを嗅いだ瞬間、

古本でもって学業のことに充てることの貧しさを実感し、心に悲しみの影が差す。

爾来、「豊かであること」とはすなわち、

その匂いをわがものにせしめることができる身分になること、と思うようなったのだ。

「貧しさ」とは、その匂いにいつまでも憬れていることに他ならない。

それは千数百円の本であったと思う。




とまれ、

こんにちの古本業界では、いわゆる新古書店※3のたぐいが幅を利かせているが、

ああいうところの本は毒にも薬にもならないものばかりである。

毒にも薬にもならない本はすなわち何の役にも立たない代物である。




ではどうして神保町で店を構えるのか。

儲けようとして商いをしているようにはどうみても見えない彼の界隈の店主たち。

あすこ※4には常人には理解できない魔力のような磁場が発生しているとしかいえない。

「本が好きなんです」、

という一言は書店員、司書※5、学校の先生など、

様々な職種の人々たちから聞いたことがあるが、

「古本が好きなんです」、

という安易なひと言では、おそらく古本の魅力は語れないのだろう。




かつて、小川図書という北沢書店の並びの洋書店で、

Virginia Wolfの"Common Leder"というハードカバーの小さな本を購入したことがある。

その本を開いたときに、おそらく前の持ち主が栞代わりに使っていたのであろう、

一葉のはがきが手元に落ちた。

スタンプの年号をみれば「昭和一六年」とある。

鉛筆書きのかすれた文字を読んでいくと、

それは、青年が砲兵隊の徴兵にあずかる旨を取り急ぎ同窓の友人に伝える内容だった。

その古びた手紙を読んだ時、もはやこの世にいないやも知れぬ人の、

偉人でも有名人でもない、かすれた鉛筆字の個人のやり取りを一寸垣間見たとき、

わたしは日本人の六〇年前の戦争のことを思い、しらず感慨深い心持になった。

だが、おそらく、古書から出発する魅力とはそういうものなのだろう。








(※1。鉄筋コンクリート製の建物:山積した書籍の何トン、何十トンという重みにも床が抜けない建物の象徴である。註2で言及する反町茂雄が東大法科卒業後就職した靖国通り沿いの一誠堂は古色蒼然としたコンクリート建築で、学生の小遣では買えない本ばかりを扱う神田古書街の老舗中の老舗である。神保町界隈の脆弱な古書店は通常ビルヂングの第一階に店舗を構えている。建物の二階以上の高さにも店舗が続いている場合、それは有力な店であることが多い。一誠堂に加え、小宮山書店、北沢書店などがそうであろうか。また、雑居ビルの二階以上の高さのワンフロアーに、人目を避けるような構えの店がある場合、それはサブカル系・アダルト系などの分野に偏屈なほど特化した店である可能性が高い。)



(※2。反町茂雄の『一古書肆の思い出』によれば、近代以前の日本の和綴じ本を「古典籍」、明治から第二次大戦の敗戦までに出版された本を「古書」、それ以降から現在までに出版された本を「古本」と分類するそうな。といっても、古書業界で「天皇」とまでいわれた人物(青木正美『古本屋群雄伝』参照)ののたまう解釈がそれほど定着しているとも思えないが。ちなみに「天皇」はしばしば独善的な人物に対し皮肉の利いた呼称として用いられる。)



(※3。具体的にはBookoffブックマートTSUTAYAなどである。企業により書籍の二次販売のあり方に相違はあるが、文明になにも貢献していない書籍を巷間に流通させることに関しては一流の企業群である。)



(※4。「あすこ」は本来、遊里や女性器をさす江戸の隠語である。「遊び」を「あすび」と発音する場合も同じたぐいで、猪牙舟に乗り遊郭で放蕩と洒落込むような状況を描写する語である。ここでは遊郭と同様の価値を持つ古書街界隈の魔術的魅力をこの日本語で表現した。筆者のこの説明は言い訳がましく聞こえるかもしれない。しかしながら、古書店の店主・店員の大半が男性で占められている事実は看過しえないことである。)



(※5。今日の公立図書館の司書はサービス業に特化している。とくにカウンター業務に従事する司書に第一義的に求められるのは、網羅的な書籍の知識ではなく、客を不快にさせない接待術である。あるとき、桑原武夫が何者かを知らない司書の口が「わたしは本が好きなのです」と発音したとき、それは筆者にとって耐え難い不協和音であった。ところが、それでもそれが司書としてなりたつのが今日の図書館の現状なのである。かつて大英博物館にはRichard Garnettとという博覧強記の伝説的な司書がいたそうだ。しかしそういった偉人たちを理想像として夢想することは、それ自体すでに大時代への憧憬なのである。)