文語文

丸谷才一の文章は歴史的仮名遣いを用いたものだが、これには最大の弱点がある。

口語文、という点だ。

丸谷才一の文章がもしも文語文ならば、歴史的仮名遣いも活きるはずだか、

たとえば丸谷のエッセイの仮名遣いを現代仮名遣いにおろしたとしても、

大した差はないのである。




丸谷が芥川賞を受賞した作品に『年の残り』というものがある。

これは、戦争中に懲役を忌避して日本中を逃げ回っていた男が敗戦後になり、

社会的な負い目をもち、周囲からも白眼視されるという内容である。

戦後にあっても戦争に振り回される男、

おそらく出版当時はかなりの現実感をもって受け入れられたであろうフィクションなのだ。

この作品自体は忌避者の精神内容によくせまった作品だが、

ところでこれは現代仮名遣いで書かれたものなのである。

作者名を伏せて小説を読み、文章の癖などから作者名を当てて見せるという一興があるが、

おそらく作者を知らずに読む人の中で、これが丸谷才一の文章であると気づくものは皆無だろう。

丸谷の作品は元来和語を多用し、非常に癖のない文章で構成されているが、

そのすまし汁のような印象の軽薄さのために、これに現代仮名遣いを使用した場合、

どこにでもいる市井の物書きの文のような、

大抵の人が見過ごしてしまいそうな代物が出来上がるのである。

だれでもすまし汁は愛せど、それはどこの家庭の食卓にもあがるものであり、

それが喉を通ることで、ある人にとっての一生の思い出の一汁となるようなことはまずない。

おそらく丸谷はそういった自分の文章の癖のなさを自覚していたがために、

何時のころからか、歴史的仮名遣いをみずからの個性のひとつとして取りいれていったのではないだろうか。




文部省が戦後に歴史的仮名遣いを改めたことを丸谷才一は批判しているが、

自らの文章でかたくなにこの旧仮名遣いを使い続けるのには、

伝統的な仮名遣いを守るという崇高な理由とは別に、

自分の作家としてのアイデンティティーを保守しようとする意図が感じられてならないのだ。

もしも丸谷が歴史的仮名遣いと文語文を合わせて用いて、

明治時代の私小説のような作品を現代に再現したとしても、

当節見なれない文字遣いに辟易とする人のほうが多かろう。

丸谷は歴史的仮名遣いを固守しつづけながら、ある側面において、妥協をしているのだ。

丸谷才一が大衆小説の作家であり、

口語文と歴史的仮名遣いという不似合いな組み合わせで小説を著すかぎり、

作家はうちに大きな二律背反を含んでいるのである。