隣の住人

私は団地に住んでいる。

約一年半この十四階建ての集合住宅に住んでいるが、

さきほど初めて隣の部屋の住人を目撃した。

男性だった。





町内会の付き合いで挨拶を交わす団地の住民はいるが、

居住者の大半はこれに出席しないため多くは他人に等しい存在である。

相互の紐帯が希薄であることから、わたしの住んでいるビルディングは他人同士の世帯だらけである。

お隣さん、と気安く呼ぶような関係でない以上、「隣の住人」という極めて他人行儀な言い方がこの場合まかり通ってしまう。

こういった現象はなぜ発生するのだろうか。

ということを考えていて、ふと丸山眞男のことを思い出す。

あの皇室の藩屏としての矜持が縦の従属の震源として存在し、

はたしてそれが町内(正確には隣組)にまで波及したのである。

結局はその伝播は抽象的な連帯感を生んだに過ぎないが、

(現には敗戦とともに曖昧とした戦時的目的意識は意味消失し、何のための戦いだったのかということを未だに自問し続けるに至る)

近所の子どもにまでその縦の意識は内在的に組織され、最終的には最上位者の天皇にまでその縦糸は直結していたのである。

丸山眞男『現代政治の思想と行動』)

その強力な紐帯を生んだ<つながり>の意識は戦後期でも燻り続けていたといえる。

(中根千枝『タテ社会の人間関係』)




しかしいま、隣の住人の顔を始めて見た、という事実はその<つながり>に何を提起するだろうか。

最も妥当とおもわれる表現は、<不在の在>である。

同じ玄関を、エレベーターを、廊下を使用しているにもかかわらず、接点が生じない。

共同という意識がもとより存在しない。

近隣とのつながりが存在しない以上は、このつながりは大半の人にとって有意味なものではない。

<不在の在>が有意味なものを圧迫しているのだ。

団地は斉一的、画一的な構造が建築物の特徴として挙げられ、

無味乾燥で無機的な趣きのある建物といえる。

この<不在の在>という非人格的で浸透性の魔物が存在するにはぴったりの場所はないか。

ばらばらな個人の集まりとしての他人、それを団地という一所にとどめ置き、

尚且つその他人同士を他人同士のままにしておく<無の紐帯>があってもおかしくはないはずだ。




わたしは現象学の哲学者ではないが、存在そのものの存在、を提起するなら、

もちろんそこには「存在しないことの存在」もあることを逆説的に認めざる負えまい。

延々とした哲学的探究の彼方にやっと見え隠れするという点と、

結局それは目に見えないものであるという、否定的な特徴を考えてみるとき、

この非存在の在のほうこそ、

その「存在のそのもの」の特徴をもっともよく捉えているのではないか。

とどのつまり、それは鏡移った影の切れっ端のようなものである。




以上のことを社会学的に分析すると、わたしの暴論よりも、

より整然としたものが出来上がるに違いない。

社会学は個別の事例から普遍的、いってしまえば色彩のない理屈をぶちあげるものである)

もうすこし、つぎは分析的に書けるようにしよう。