静寂

ここ十日ほどの期間は、過去一年半ほどのうちで、おそらくもっとも静かなひとときである。

とりたてて用事はなく、だからといって暇つぶしをする気もせず。

嵐の前の静けさというよりも、

浮雲に乗せられてどこか不案内な何処へと運ばれていくようなところにこころは居て、

いまだけは、いつもと同じ音楽や食事は違う感覚を提供している。

ちょうど旅立ちの朝の食事は急かすような味わいがするように。





旅について網野義彦は、江戸期に幾度か旅行ブームが起きていたことを指摘しているが、

江戸時代の人は遠くの仏閣に参詣することにあこがれをいだいていたという。

休耕期に鍬を置き徒歩(かち)にて西方へと歩みだした坂東の農民のこころには、

そのとき如何なる感情が芽生えていたのだろうか。




三里に灸をすえる旅の一方で、詩人ヘルダーリンはついぞギリシアを訪ねたことがなかった。

あの古代ギリシアを数多詠じたロマン派の詩人が、である。

しかしヘルダーリンギリシアを考えたとき、そうであっても、

ウェルギリウスオルフェウスは彼の心のなかで詩を詠じていたし、

たしかにヘルダーリンのこころはそのとき古代のギリシアをめぐっていた。

その旅ははたしてどういう種類のものだったのだろうか。

徒歩の旅人が丘陵から同心円状に拡がるギリシャの遺跡にたずね、魅せられ、

景観からうる過去の文明の興亡に思いを馳せる一方で、

ヘルダーリンの旅は昔日の人々の心に迫りすぎたのではなかったか。

なぜ彼は後半生を大工屋の納戸で薄命のうちに過ごすことになったのだろう。

幽玄の詩人が心を病んだのには理由があり、

それは旅人の不安と精神の未知が綯い交ぜになった濁流にヘルダーリンが飲み込まれていったからだと思う。

ともすると、『ヒューペリオン』を真に理解できないあいだ、読者のこころは健全なのかもしれない。




当たり前の一人として、いまは前者の旅人でありたい。