真理が女の狂想曲

もしも真理が女だとしたら、哲学者はみな戦々恐々とするはず。

なぜか。

童貞の哲学者にしてみたら、その真理は死刑宣告にも等しいからだ。

つまり両手に花のニーチェに、「女とも寝たことのないやつが、真理の追求とはね、ふふ。ねえ君、知っているかい、真理は女そのものなんだよ。」と足下にされるのである。

この場合、彼女が五人ほどいる哲学者は、非道徳的でありながら、

より真理に近い存在であるといえる。

なんとまあ。




そこで、童貞の哲学者は名誉挽回のために、今夜のうちにでも下町の娼館に赴いて、

筆おろしをおねがいしなければならないことになる。

哲学者はたいていは貧乏と相場が決まっているから、

なけなしの本代から90分コースの料金を拠出して、

それでもまだ所定の料金が払えず、

一度帰宅し、娼館のウェブサイトから割引クーポン券をプリントアウトしてきて、

加えて初回だからということで店主にまけてもらい、

じゃあ75分、という条件で、その店であまり人気のない女をあてがわれ、

やっと童貞を脱却するという運びと相成る。

そしてあれよあれよという間に、服を脱がされ、キスを浴びせられ、

お尻を甘噛みされたりして、ぬるぬるする液体を全身に塗られるのだ。

全身ローションだらけになった裸の哲学者は、

自分の上で小躍りする歯並びの良くない女を悲しい目で見つめながら、

いつの間にか男になっていた。




ということだっておこるはずだ、

真理が女であるなら。




たいていの哲学者は、真理は女、という命題をおおまじめになって論じようとしない。

それは、議論が下町のソープランドに堕落してしまうからではなく、

90分コースの料金が払えないからでもなく、

クーポン券のダウンロードの仕方がわからないからでもなく、

なんとなく悲しい気分になるからでもなくって、

モテない諸兄には、その真理は著しく都合が悪いからだ。

彼女のいない哲学者を、禁欲的とするか、モテないと断じるか、

二様あるように見えて、

それは二つの仮面をかぶった、同一のレトリックである。

ニーチェはそんなことを言いたかったのではなかったか。