古本

最近にわかに古書籍価格のインフレが進んでいるような気がする。

新古書店の出現、ネット販売大手の成長、などで、

古本という黴とほこり臭い業界に価格バランスの刷新が進行中ではないか。

最近では日本の洋書市場に海外の書店(個人商等問わず)が参入している。

きっと神田あたりの老舗は間口がさらにせまくなるだろう。

靖国通り沿いの北沢書店にて、いつのまにやら、

洋書スペースが大幅に縮小されたのはシンボリックなできごとであり、

見えない販売力が、

それ自体タンジャブル(実体を有する)な機関を抑圧しているといえる。

もっともそれは漸次的圧力にすぎないかもしれないが、

それはじわじわとなぶられるような、サディスティックな、圧力だ。




かくいう自分も試みに海外から書籍を注文する。

ジョージ・スタイナーの"after bable(邦題『バベルの後に』)"。

約一三〇〇円なり。

だが格安だから目をつぶるとしても、なんとも本体が汚い。

古い本がそれだけで本棚を知性で満たすわけではない。

苔が蒸すような、古色蒼然たる趣きの書籍と、単に汚いだけの本はなにかがちがう。

それは本が歩んできた道のり、人の手から手へと渡った回数の差か。

一期一会の離別ののちの汚れはたんなる手垢にあらず。

邂逅の連続は、本に一瞬の個人的歴史を刻むのである。

本人ですら忘れてしまうような欄外の一筆。

無名匿名人の記憶の場末、それにでくわすことの不思議さ。




そして翻訳がいまだ上巻しか出版されていない不思議さ。

上巻の発行から九年である。

途中でやめてしまう、みすず書房の怪。



本の話にもどれば、

インフレ傾向にあるということは、いまは古書の買い時ということだ。

新古書店にならぶ格安の本が決して良書ではないという事実を全体が認識すれば、

値段はおのずから取捨選択的に落着するはずである。

今月は買う、とにかく買う。

貧乏人なりに。