現代版ドンキホーテ
ヒロシの彼女が連れ去られたと聞いて、Aが彼の家に駆けつけたときにはヒロシは台所の隅にうずくまってしくしくと泣いていた。
「彼女が連れ去られたって、いったいどこへ?」
ヒロシは顔ばかりはいやにデカく脂ぎっているのに、おんなおんなしい男で、このときも薄いピンクがかった女物のハンカチを目頭にあてていた。
「彼女が連れ去られたって?」と再び聞いたAは半信半疑なまま、本当に誘拐されたのならなぜ警察に連絡したりしないで俺なんかに電話してきたんだ、と内心すこしばかり脹(ふく)れていた。
ヒロシは嗚咽ともカエルの声真似ともつかない奇怪な音を出しながら、
「ヤクザ男がいきなり家に入ってきて……」
「それで?」
「彼女が連れて行かれちゃったんだよぉ。」
この間一緒に繁華街を歩いていたときも、ヒロシは道端のセーラー服女子高生をナンパしていたワックスでテカった髪の男をさして、やくざ男だ、と言っていた。
そのことを冷静に思い出した後に、さらに冷たい調子でAは「じゃあ俺が代わりに警察に…」というと、ヒロシは相変わらずの調子で「だめだよぉ、それだけはやめてくれよぅ」というのだった。
実際にヒロシの彼女は連れ去られていたが、厳密にいえば、二人が房事の最中に突然長身の男が愛の巣に押し入り、女のほうを無言のままに連れ去ったのだった。
彼女は抵抗をしなかったし、ヒロシも突然のことで唖然として手も足の出なかった。
というよりも、ヒロシは文字どおり両手両足を縛られ鞭で打たれるというあのプレイに耽(ふけ)っており、縄目がぎりぎりと食い込む感触に惚(ほう)け、丁度ひいひいとあえいでいたところだった。
実際に刃傷沙汰になったわけでもないし、警察に行ったとしても根掘り葉掘り当時の状況を説明しなければいけないことを考えると、ヒロシは大いに狼狽して縄を自力でほどき、親友のAに電話をかけたのである。
ヒロシがその経緯をAに告白したとき、Aはあるいはヒロシのほうが間男で、もてあそばれていた側なのかもしれないと一寸思った。
どうみてもヒロシは女にモテそうなやつではなかったし、SMの練習台にされていたヒロシのところに女の本物の彼氏がやってきて、すべてがばれたことを観念した女は甘んじて連れて行かれたというのかもしれない。
第一にSMプレイを楽しむときに戸締りを忘れたりするやつが悪い、それに本当にやくざ男なら女を無言で連れていったりはせず、緊縛されたままのヒロシに二言三言殺し文句を浴びせてもよかったはずだろう。
いや、あるいはやくざ男は田舎育ちで、ガマカエルのように脂性のヒロシが縄に包まってじたばたしているところから、畔道で捕まえたカエルの尻穴から藁で空気を入れ、腹が膨らみ手足が地面につかずにじたばたするのを見て楽しんだ無邪気残酷だった少年時代を黙然と想起していたのか。
そんなことを考えながらヒロシをじろりと見ると、台所の蛍光灯に照らされたヒロシの体には服の合間から例の縄鞭(なわむち)プレイの跡が看過できる。
よりによってこんな男を知り合いにもつなんて、とAは自分が憎らしく思った。
あるいはこのまま、こいつを放置して家に帰るというのも一興で、だまって警察を呼んでヒロシが羞恥心のあまり泣き叫ぶのも案外面白いのかもしれない、などと思案していた。
そんな親友の夢想のことは知らず、ヒロシは必死の顔で懇願した。
「なぁ、A。本当に助けてくれないかな。助けにいこうよ彼女を。」
しかし万が一その長身の男がやくざだったら、とすると、Aは先ほどから逞しゅうなっていた想像力で、女の奪還に失敗したヒロシと自分の死体が山奥の鬱蒼とした森に埋められている様子を想像してしまった。
そして言下に、やめた方が身のためなんじゃないかな、SM女王はまた見つかるかもしれないし、それに俺は山奥は嫌だし、と言う。
「山奥?」
ヒロシはぽかんとした口元に鼻水を垂らしていた。
下唇だけはよく見ると赤く滲んでいる。それはいったいどういったプレイによるものだろうか。
「ほらこのあいだ風俗街を歩いていたときも、にやにやしながらお前はSMの店を何軒も見せて回ってくれただろう。またそういうところに通ったらいいじゃないか。きちんと料金を払って、通常料金以上のにゃんにゃんを要求したりしなければ、やくざはいても出てこないんだし。」
「でも、でも……」
鼻水と脂でぐずぐずのヒロシはまた泣きそうになっていた。
過去にヒロシが泣いたときに、Aがそのときの様子を脚色して合コンで話すと、これが意外に反響が大きくそのまま話のタネになるということがあった。
他人の不幸を面白おかしく言うとは何事だ、というようなお叱りもたしかにあったが、それを上回る笑いがヒロシ一人の犠牲で満座に起こるのである。
それは、ヒロシがSMが原因の痔になったことを従姉妹のなかで一番かわいい女の子に知られてしまい、次にその従姉妹と法事で会ったとき、自分が薄汚れた性欲の持ち主であることを逆手にとって、男の危険性や世の不条理を延々と説法していたら、最後には泣かれてしまい、伯父さんから二度とお小遣いが貰えなくなった、という話である。
もう清廉な親戚のお兄さんを演じられなくなることにショックを隠しきれないカエル顔のヒロシは、その頃はまるで一行だけの科白が終わった学芸会のわき役みたいに、合コンにいても繁華街を歩いていても、どことなく所在なさげだった。
今日いままでのことだけで、新たなタネとしては十分な入荷量だったが、しかし同時にAはヒロシが親友であることも思い出し、軽いため息をついた。
「わかったよヒロシ、じゃあ捜すのだけは協力するからさ。ただし、相手が本当にやくざだったら俺は手を引くし、悪いことは言わないからお前も手を引け、いいな?」
内心ビビっていたAは、散切り頭の入れ墨男ではなく、テカテカ頭のワックス男が女を奪った犯人だと思っていた。
むしろ、そうであってほしかったのである。
ありがたやありがたや、という態度ですがりついてきたヒロシの威儀を正し、こうして二人は、愛しのSM女王様を奪い返すために、ヒロシの家の玄関から足取り重く出発したのである。
続(かない)
「彼女が連れ去られたって、いったいどこへ?」
ヒロシは顔ばかりはいやにデカく脂ぎっているのに、おんなおんなしい男で、このときも薄いピンクがかった女物のハンカチを目頭にあてていた。
「彼女が連れ去られたって?」と再び聞いたAは半信半疑なまま、本当に誘拐されたのならなぜ警察に連絡したりしないで俺なんかに電話してきたんだ、と内心すこしばかり脹(ふく)れていた。
ヒロシは嗚咽ともカエルの声真似ともつかない奇怪な音を出しながら、
「ヤクザ男がいきなり家に入ってきて……」
「それで?」
「彼女が連れて行かれちゃったんだよぉ。」
この間一緒に繁華街を歩いていたときも、ヒロシは道端のセーラー服女子高生をナンパしていたワックスでテカった髪の男をさして、やくざ男だ、と言っていた。
そのことを冷静に思い出した後に、さらに冷たい調子でAは「じゃあ俺が代わりに警察に…」というと、ヒロシは相変わらずの調子で「だめだよぉ、それだけはやめてくれよぅ」というのだった。
実際にヒロシの彼女は連れ去られていたが、厳密にいえば、二人が房事の最中に突然長身の男が愛の巣に押し入り、女のほうを無言のままに連れ去ったのだった。
彼女は抵抗をしなかったし、ヒロシも突然のことで唖然として手も足の出なかった。
というよりも、ヒロシは文字どおり両手両足を縛られ鞭で打たれるというあのプレイに耽(ふけ)っており、縄目がぎりぎりと食い込む感触に惚(ほう)け、丁度ひいひいとあえいでいたところだった。
実際に刃傷沙汰になったわけでもないし、警察に行ったとしても根掘り葉掘り当時の状況を説明しなければいけないことを考えると、ヒロシは大いに狼狽して縄を自力でほどき、親友のAに電話をかけたのである。
ヒロシがその経緯をAに告白したとき、Aはあるいはヒロシのほうが間男で、もてあそばれていた側なのかもしれないと一寸思った。
どうみてもヒロシは女にモテそうなやつではなかったし、SMの練習台にされていたヒロシのところに女の本物の彼氏がやってきて、すべてがばれたことを観念した女は甘んじて連れて行かれたというのかもしれない。
第一にSMプレイを楽しむときに戸締りを忘れたりするやつが悪い、それに本当にやくざ男なら女を無言で連れていったりはせず、緊縛されたままのヒロシに二言三言殺し文句を浴びせてもよかったはずだろう。
いや、あるいはやくざ男は田舎育ちで、ガマカエルのように脂性のヒロシが縄に包まってじたばたしているところから、畔道で捕まえたカエルの尻穴から藁で空気を入れ、腹が膨らみ手足が地面につかずにじたばたするのを見て楽しんだ無邪気残酷だった少年時代を黙然と想起していたのか。
そんなことを考えながらヒロシをじろりと見ると、台所の蛍光灯に照らされたヒロシの体には服の合間から例の縄鞭(なわむち)プレイの跡が看過できる。
よりによってこんな男を知り合いにもつなんて、とAは自分が憎らしく思った。
あるいはこのまま、こいつを放置して家に帰るというのも一興で、だまって警察を呼んでヒロシが羞恥心のあまり泣き叫ぶのも案外面白いのかもしれない、などと思案していた。
そんな親友の夢想のことは知らず、ヒロシは必死の顔で懇願した。
「なぁ、A。本当に助けてくれないかな。助けにいこうよ彼女を。」
しかし万が一その長身の男がやくざだったら、とすると、Aは先ほどから逞しゅうなっていた想像力で、女の奪還に失敗したヒロシと自分の死体が山奥の鬱蒼とした森に埋められている様子を想像してしまった。
そして言下に、やめた方が身のためなんじゃないかな、SM女王はまた見つかるかもしれないし、それに俺は山奥は嫌だし、と言う。
「山奥?」
ヒロシはぽかんとした口元に鼻水を垂らしていた。
下唇だけはよく見ると赤く滲んでいる。それはいったいどういったプレイによるものだろうか。
「ほらこのあいだ風俗街を歩いていたときも、にやにやしながらお前はSMの店を何軒も見せて回ってくれただろう。またそういうところに通ったらいいじゃないか。きちんと料金を払って、通常料金以上のにゃんにゃんを要求したりしなければ、やくざはいても出てこないんだし。」
「でも、でも……」
鼻水と脂でぐずぐずのヒロシはまた泣きそうになっていた。
過去にヒロシが泣いたときに、Aがそのときの様子を脚色して合コンで話すと、これが意外に反響が大きくそのまま話のタネになるということがあった。
他人の不幸を面白おかしく言うとは何事だ、というようなお叱りもたしかにあったが、それを上回る笑いがヒロシ一人の犠牲で満座に起こるのである。
それは、ヒロシがSMが原因の痔になったことを従姉妹のなかで一番かわいい女の子に知られてしまい、次にその従姉妹と法事で会ったとき、自分が薄汚れた性欲の持ち主であることを逆手にとって、男の危険性や世の不条理を延々と説法していたら、最後には泣かれてしまい、伯父さんから二度とお小遣いが貰えなくなった、という話である。
もう清廉な親戚のお兄さんを演じられなくなることにショックを隠しきれないカエル顔のヒロシは、その頃はまるで一行だけの科白が終わった学芸会のわき役みたいに、合コンにいても繁華街を歩いていても、どことなく所在なさげだった。
今日いままでのことだけで、新たなタネとしては十分な入荷量だったが、しかし同時にAはヒロシが親友であることも思い出し、軽いため息をついた。
「わかったよヒロシ、じゃあ捜すのだけは協力するからさ。ただし、相手が本当にやくざだったら俺は手を引くし、悪いことは言わないからお前も手を引け、いいな?」
内心ビビっていたAは、散切り頭の入れ墨男ではなく、テカテカ頭のワックス男が女を奪った犯人だと思っていた。
むしろ、そうであってほしかったのである。
ありがたやありがたや、という態度ですがりついてきたヒロシの威儀を正し、こうして二人は、愛しのSM女王様を奪い返すために、ヒロシの家の玄関から足取り重く出発したのである。
続(かない)